trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

(番外編)初めての稚内⑤

初めての宗谷本線は、往路は名寄までは明るかったのが、名寄から先は真っ暗で見えず終点稚内まで寝てしまいましたが、復路は朝一だっただけに旭川まで明るい中でした。

稚内を出て次の南稚内までは、住宅や商店等の市街地が続きました。稚内駅前は観光案内所や市役所、バスやフェリーのターミナルが主でしたが、南稚内は市場やショッピングセンター等の商業施設が集中していて、稚内駅前よりもにぎやかでした。
また駅のホームも稚内は1面1線なのが南稚内は1面2線な上に車両基地があり、稚内に着いた列車は一旦南稚内に引き返して基地で清掃や点検等を行い、それから稚内に戻って客を乗せて出るようになっています。
南稚内を出ると、しばらくはサロベツ原野の緑の中を、緩やかにアップダウンしながら進みます。特に次の抜海までは、西に日本海と利尻島を望み、晴れた日には通称「利尻富士」と呼ばれる利尻岳がくっきりと見えます。今回は曇り空で島影すら見えませんでしたが、かつての蒸気機関車の時代には、サロベツ原野の緑や利尻富士をバックに走る、C55形蒸気機関車の引く客車普通列車の写真撮影でにぎわいました。
豊富までは駅前にほとんど住人のいない無人駅にことごとく止まり、豊富からは住宅や牧場がちらほらと見えます。
国鉄時代末期まで留萌まで通じていた羽幌線が分かれ、今はトナカイ牧場や雪印のバター工場でにぎわう幌延を出ると、車窓右手に、道内で2番目、国内でも4番目に長い一級河川・天塩川が迫りました。
札幌時代に道内一の石狩川や、首都圏に来て国内一の利根川や国内二の信濃川は見ましたが、天塩川は旭川より真北に行ったことがないだけに、見る機会がありませんでした。
士別市南東の天塩岳に源流を発し、士別市街から幌延まではほぼ宗谷本線に沿って流れ、そこから西に曲がって幌延町郊外と天塩町との境目で日本海に注ぐ天塩川は、石狩川や利根川等の河川に比べてコンクリート等で護岸されている箇所が少なく、自然のままの川岸が多く残されていて、石狩川や利根川と違って見ていて心が和みました。特に幌延から天塩中川までの区間は、線路下の崖っぷちのすぐ横を流れ、その美しさ力強さに、携帯電話のカメラのシャッターを押しました。
天塩中川に差し掛かると、川に加えて市街地や住宅地がちらほら見られ、7時41分に、かつてオホーツク沿岸の浜頓別を経て稚内に通じていた旧JR天北線が分かれていた音威子府に着きました。
山あいの小さな村で、かつては林業、今は木工や音威子府そばで有名で、特にそばは実を皮ごと挽いて打つので、皮の色で真っ黒な麺になり、つゆもそばの色に負けないくらいに味も色も濃いのが特徴です。
駅舎内に音威子府そばの立ち食い店があり、次の列車を待ってそばを堪能しようと思いましたが、店は10~16時まででまだ開店前だったので、大急ぎで音威子府駅正面の写真を撮り、飲み物を調達して列車に戻り、7時44分に音威子府を後にしました。
それまで列車は僕と、人相の悪そうな若い男の撮り鉄の2人だけでしたが、音威子府でその撮り鉄が降り、代わりに年配者や高校生が数人乗ってきました。高校生は音威子府と名寄のほぼ中間の美深で降りました。
美深は85年まで町内の仁宇布(にうぷ)という場所まで、「日本一の赤字ローカル線」の異名を取った旧国鉄美幸線が分かれていました。路線名の通り、美深とオホーツク沿岸の枝幸(えさし)町を結ぶ予定でしたが、仁宇布で止まったまま工事が進まず、そのまま廃止されました。
音威子府から美深を経ては天塩川、市街地や住宅地に加えて森林や農村風景が続き、住宅その他の建物が増えてきたところで、8時47分、再び名寄に戻りました。行きは夜7時の薄暗いときでしたが、帰りは朝の、日差しが少し強いときでした。
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  1. 2017/08/14(月) 19:51:47|
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(番外編)初めての稚内④

日付変わって6月21日の0時過ぎに稚内に着き、ごく数軒の飲み屋さんに明かりがともっていた以外は、駅前の商店は元より「頼みの綱」と思っていたセイコーマートまで閉まっていて、酒を買うにも買えませんでした。
その上、旅行前から手当たり次第ホテルに電話しましたがどこも満室で、キャンセルで空室がないか駅前のホテルを探しましたが、やはりどこも満室で、一昨年の同時期に釧路に泊まったときとは意外にも大違いでした。
しかしよくよく考えてみれば、6月は北海道旅行のハイシーズンであり、しかも日本最北端の稚内となれば、宗谷岬や利尻島・礼文島と見どころ満載で、宿が取りにくいのもむべなるかなというものです。加えて伺ったホテルでは、どこもビジネス客も多くて、なおさらでした。
仕方ないので、駅周辺を歩き回り、駅前のベンチで夜を明かすことにしました。0時過ぎに着き、始発の鈍行が5時20分発、その次の特急「サロベツ」でも6時20分発で、それまで精々4~5時間しか寝られないので、それなら野宿した方がマシと思いました。
とはいうものの、一度寝付いて寝過ごすのも心配だったので、シャッターが閉まった商店街や近くの漁港、昔は稚内駅から貨物の引き込み線が延びていたであろう石油貯蔵タンク、フェリーターミナルを歩き回り、店で買い物や飲食ができない分、稚内の雰囲気を少しでも感じ取って
「ここが稚内だ、日本の最北端に初めて来たんだ!」
と、自分の心にあかしを刻みました。
再び駅前に戻り、駅舎内のロビーがちょうど風除室になっていて、無人だったので中で暖を取ったり寝るのも可能で、横になったりしました。
それでもそうそう寝付けず、今度は駅の周囲を歩き回り、駅舎の外に「日本最北端の線路」のオブジェとして置かれた、鉄道の線路と車止めを暗闇の中じっくりと眺めました。

寝付けないので、駅前の自販機でコーヒーやお茶を買って飲んで眠気を覚ましていると、JR駅と兼ねた「道の駅」の駐車場に車が大勢止まっていて、ナンバーを見るとやれ横浜だ大阪だ福岡だ、本州以南からの客が多くて驚きました。
その中で、福島県から来た年配の男性と話が合い、その男性が夫婦で来ていて、普段は農家を営み、稚内に車で旅に来たが宿が取れず仕方なく駐車場に車を止めて寝泊まりしていることを話すと、僕も自身が北海道出身で今は神奈川県住まいだが、今まで稚内始め旭川より真北に行ったことがなくいつか最北端に行きたいと思っていて念願かなったことを話しました。
男性は止まっていた他の車のドライバーとも話をしたようで、聞けば中には一旦車を置いて利尻や礼文に渡った人もいるが、大方は満室で宿に泊まれず仕方なく駐車場で寝泊まりしているということでした。

6月も21日となればちょうど「夏至」で一年でもっとも日が長く、日本で特に東に位置する北海道は最東端の根室を始め稚内も朝4時前から明るくなりました。
写真を撮るに申し分ない明るさになったので、先の「日本最北端の線路」ほか稚内駅の正面を撮りました。4時半になると駅の改札が開き、ホームに入れるようになったので
「日本最北端の駅」
の看板を撮りまくりました。始発の名寄行き普通列車がホームに入っていて、車内に荷物を置いて列車を撮ったり、自販機で飲み物を確保し、残りわずかな稚内での時間を堪能して、5時20分、5時間だけ過ごした稚内を後にして、再び南下しました。
  1. 2017/08/11(金) 19:42:49|
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(番外編)初めての稚内③

名寄に着く少し前ですが、車窓右手の、廃止されたJR名寄本線(名寄~興部~紋別~中湧別~遠軽)の線路跡に、かつて名寄本線や宗谷本線で冬の除雪作業に活躍した
「キマロキ」
という列車が展示されているのが見えました。線路跡の周辺は「北国博物館」として、公園や列車の資料が展示されています。
「キマロキ」というのは
キ=機関車(ここでは9600形蒸気機関車)
マ=マックレー車。羽を両脇に広げて雪をかき集め、線路上にまとめて置く鉄道の除雪車両。
ロ=ロータリー車。前面の回転式の羽を回転させて雪をかき集め、排雪口から遠くに飛ばす除雪車両。
キ=機関車(ここではD51形蒸気機関車)
の順番で編成された除雪列車のことで、冬の北海道では線路に雪が高く積もることが度々で、一般の列車が立ち往生しがちだったので、少しでも運行できるように、こういう除雪列車が運転されました。
「キマロキ」となっていますが、実際には最後の「キ」の後ろに、除雪作業員を乗せるために、普段は貨物列車に連結されて車掌が乗る「車掌車」が連結されています。

本題で、初めて名寄に着いたときは、外は薄暗くなっていました。改札に入ったときは「みどりの窓口」がちょうど19時で閉まったばかりで、僕たちが入ったのを最後に以後は駅員不在になりました。北海道に限らず全国の地方駅には、いわゆる合理化で、駅員配置が例えば7~19時というように、利用客が多い時間帯に限って駅員を配置するところが多くなりましたが、昔はどの駅員配置駅も、始発から終着まで駅員がいたものでした。

駅前の商店街は、多くが空き店舗で、店があっても19時で閉店ばかりで、後は全国チェーンのコンビニで買い物するしかなく、名寄らしい店を味わうに味わえませんでした。親戚や顔見知りも誰一人いず、寂しいところでしたが、それでも、列車の待ち時間に、かねがね知っていた名寄名物の「煮込みジンギスカン」を食べに、良さそうな居酒屋を探しました。
最初に見つけた飲み屋さんには煮込みジンギスカンはなく、路地に入った店を教えてもらい、ようやくその店で熱々の鉄板で焼かれた、煮込みジンギスカンにありつきました。
ジンギスカンは通常は専用のジンギスカン鍋や鉄板、網で焼きますが、この煮込みジンギスカンは、肉を、漬け込んだタレごと鍋で、玉ねぎや白菜等の野菜やうどんと一緒に煮込むもので、いわゆる「B級グルメ」として「知る人ぞ知る」地域の名物料理の一つとなっています。
噂にたがわず料理は肉を漬け込んだタレが野菜やうどんによく染みて、ご飯やお酒が進むのもうなずけました。チューハイと日本酒を同時に注文しましたが、その日名寄に宿を取っていれば、もっと料理を堪能したいほどでした。
居酒屋を出、駅前を歩き回ると、昔の木造建築があちこちに残っていて、故郷の北見さながらでした。

駅員不在になった名寄駅に戻ると、駅舎左側の待合室は僕を含めて3人だけで、だだっ広い中に明かりがこうこうと付いて、テレビが一人でしゃべっているかのように音声を発していました。ベンチには地元名寄の高校生が作ってくれた座布団が一席残らず置かれ、利用客への気遣いが伝わりました。
木造駅舎、駅舎入口真上の時計、駅舎内左側の待合室、右側のみどりの窓口……どこかに似ていると思ったら、故郷の北見駅の昔の駅舎によく似ていました。
駅舎外左側にコンテナホーム、駅裏に車両基地があるところも北見駅と同じで、昔の北見にタイムスリップしたような気分でした。

21時03分に下り最終の特急「サロベツ3号」に乗り、その後は途中駅の美深や音威子府等を見たいと思いつつ、夜行バスでの疲れもあって席を倒して熟睡し、本来23時47分のところが列車が途中遅れたようで、日付変わって0時過ぎに、念願の日本最北端の駅・稚内に初めて着きました。
稚内も名寄同様、夜間は駅員不在で、無人の改札を抜けて駅正面に出ました。話には聞いていましたが、稚内駅は2012年にリニューアルされ、道の駅とバスターミナル、そしてみなとオアシスを兼ねていて、空以外の稚内の交通の玄関が集約されていました。
  1. 2017/08/04(金) 17:02:48|
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(番外編)初めての稚内②

15時55分に特急「ライラック」を降りて、待ち時間に旭川駅周辺を初めて一人で歩き、17時35分、快速列車「なよろ」で、宗谷本線でまず名寄まで北上しました。
旭川四条駅から新旭川駅にかけては、石北本線で故郷・北見に行くのに何度も通っていて見慣れた風景でした。新旭川駅と隣接する日本製紙北海道工場旭川事業所(旧・山陽国策パルプ旭川工場)を後にし、当駅から東に分かれる石北本線の線路に故郷・北見への思いを巡らせて、初めて真北の名寄・稚内方面の線路を通りました。
左手に北旭川という、道北地区最大の貨物駅が見えました。日本の貨物列車の定期運行の北限で、旭川周辺のみならず名寄や稚内、北見・網走方面との貨物も扱う上に、所在地も旭川市のそのものズバリ「流通団地」にあるだけに、近隣の倉庫や工場からの貨物を扱うべく、広いコンテナホームを擁しています。
貨物駅の線路挟んで向かいにはJR北海道の旭川運転所があり、電車と気動車の基地になっています。
旭川市北部の住宅街にある永山を過ぎると、石北本線の新旭川以東と同じような緑の田畑風景が続き、比布(ぴっぷ)に着きました。その地名と駅名から、80年に同音の磁気絆創膏のCMが同駅のホームで収録され、その絆創膏メーカーの会長さんと樹木希林さんとの掛け合いが全国的に大ヒットしました。
その比布を出、宗谷本線の頂上と言われる塩狩駅に着き、ここで上り普通列車との交換や特急「サロベツ」の通過待ちをしました。
塩狩駅はまさしく塩狩峠にある駅で、所在地は和寒町ですが、昔は塩狩峠を境に南が「石狩」、北が「天塩」という国名で、「天塩」の「塩」と「石狩」の「狩」を取って「塩狩峠」と名付けられました。
三浦綾子さんの小説に「塩狩峠」という作品があり、実在の鉄道員・長野政雄氏が、蒸気機関車から外れて峠を逆走する客車に自ら身を投げて下敷きになり、命と引き換えに客車を止めて乗客たちを救った実話を基にしたもので、塩狩駅前にかつて三浦氏が構えていた書斎が、「三浦綾子記念館」として今も健在です。
水系も塩狩峠から南は石狩川水系ですが、ここから北は天塩川水系となって、宗谷本線にほぼ沿うように天塩川その他系列の川が流れます。
塩狩駅を出ると、同駅が所在する和寒町の中心・和寒駅に着きました。和寒は稲作・畑作が中心で、特に畑作ではキャベツの生産が有名で、秋に収穫したキャベツを冬に雪の下で保存し、春先に出荷する「越冬キャベツ」が名物で、雪の冷たさでキャベツが甘くなり、道内の餃子チェーン店で材料に利用しているところもあります。
和寒を出て、剣淵、士別と、時刻表ではかねがね知りながらもどんなところか知る由もなかった駅に止まりました。剣淵は緑の田畑が広がる中にありますが、士別は比較的にぎやかで駅前に市街地を成していました。札幌時代にガイドブックで、めん羊の産地であるほか、かつての名ボクサー・輪島功一さんが育った地でもあることを知りました。また地図で駅北西に製糖工場があることを知りましたが、実際に車窓から見た製糖工場は美幌のそれに勝るとも劣らぬ大きさでした。
士別から先は、今は名寄市に編入された旧・風連町の中心・風連駅ほかに飛び飛びで止まり、19時00分、上川総合振興局内で最北の市・名寄駅に着きました。
名寄はかつて電電公社に勤めていた父方の伯父が本別の次に住んでいて、従兄2人も同じ電電公社に入り、伯父が岩見沢に移ってからも引き続き名寄に勤務していましたが、僕は在道時代からこれまで一度も行くことはなく、今回初めての上陸になりました。
  1. 2017/07/27(木) 21:26:40|
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(番外編)初めての稚内①

ブログ本編は77年の年末を迎えようとしていますが、今は首都圏住まいの筆者は、北海道内でも住んでいた当時から今まで、行ったことない場所がまだまだあります。
その一つ、北海道そして日本最北端の稚内に、先月ようやく行って参りました。
北見の伯母と下の従兄が80年に行ったことがありますが、僕の方は自身も両親も妹もまだ誰も行ったことがなく、いつか必ずと念願して成就の運びとなりました。

6月19日の月曜日の23時10分、筆者は東京駅八重洲口の高速バスターミナルにいました。
鉄道好きの僕としては、稚内へは東京から新函館北斗まで新幹線といきたいところですが、稚内ほか苫小牧や名寄にも寄りたく、東京から朝の新幹線では苫小牧や名寄に寄る時間が取れないので、盛岡まで夜行バスを利用して、盛岡始発の朝の新幹線で早めに北海道に上陸するスケジュールを組みました。
その日の仕事を終えて荷物をまとめて夜行バスの人となり、翌20日の朝6時35分に盛岡駅に着き、同54分発の新幹線で新函館北斗に向かいました。東京から盛岡まで夜行列車があるといいのにと思いましたが、現実に夜行列車がない以上、夜行バスをうまく使うことにしました。
以前は夜行急行「はまなす」で通った青函トンネルを、昨春開業して1年が過ぎた北海道新幹線で初めて通り、木古内からは車窓右手に函館山を望みながら、9時03分、かつて「渡島大野」という駅名で周囲は畑がほとんどだった新函館北斗に着き、そこから同12分、札幌行き特急「スーパー北斗」に乗りました。
新函館北斗から大沼までは下り勾配でスピードダウン気味でしたが、大沼からは風光明媚な大沼の風景、駅弁「いかめし」で有名な森駅に近付くと右手に駒ヶ岳が偉容をたたえ、その後は長万部・洞爺・伊達紋別・東室蘭・登別と、北海道時代そして首都圏に来て北海道に行くときに大体通ったおなじみの駅や風景が流れて、正午前に苫小牧に着きました。
それからどうするかと思いましたが、小樽行きの普通列車で次の沼ノ端まで行き、下車して1時間程、気まぐれに歩いて往復できるところまで行き、13時半過ぎに沼ノ端に戻り、すぐに来た岩見沢行き普通列車で岩見沢に向かいました。
岩見沢までは室蘭線をひた走りでしたが、追分・由仁・栗山を経て岩見沢までの線路は、北海道時代から乗ったことがないだけに、畑や牧場が広がる沿線風景に目を張りました。かつて夕張や幌内その他からの石炭を苫小牧や室蘭の港まで運んでいたそうですが、その面影はみじんも感じられませんでした。
岩見沢に着き、そこからは特急「カムイ」で旭川に向かいました。故郷北見に行って以来7年振りの札幌以北の線路で、しかも札幌を通らずに岩見沢以北へ行くのは初めてでした。
その後は美唄・砂川・滝川・深川と停車しましたが、7年前に通ったとき既に、石炭の集散地で、構内に引き込み線が多く石炭を積んだ貨車でにぎわっていた美唄と砂川は、その引き込み線跡が整地されて駐車場や建物が建っていて、やはり当時の面影はみじんも感じられませんでした。
旭川に着くと、話に聞いていましたが、7年前とは打って変わってすっかりホームが高架線になり、新しく駅ビルが建ってイオンが入っていて、首都圏でおなじみのチェーン店がイオン内に並んでいて、北海道らしさが薄れていました。
それでも、列車を待つ間に、西口の買物公園を初めて歩き、市内老舗の百貨店マルカツや閉店した旭川西武の建物を見、駅前広場の露店で焼き鳥と酎ハイで一杯やった後、今度は東口に行き、西口とは打って変わって石狩川水系の忠別川がすぐそばを流れ、遠くに大雪山を望む風景に目を丸くしました。そして、初めての、旭川から真北への旅へ心の準備をしました。
  1. 2017/07/12(水) 20:22:02|
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