trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

再び札幌時代の初め

終業式からさかのぼりますが、札幌に転校して2週目か3週目くらいのころ、当時毎週月曜日夜8時に HTB-テレビ朝日系列で放送されていたバラエティー
「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」
という番組がありまして、翌年に解散を控えたキャンディーズをメインキャラクターに、加山雄三の歌や伊東四朗と小松政夫らのコントその他で構成されていて、その中でフジテレビ系の幼児番組「ピンポンパン」のパロディーで伊東さんがお兄さん役で秋野暢子さんがお姉さん役を演じていた
「ピンピンピン」
のコーナーがあり、ご両名が両脚を菱形にして
「ピンピンピン」
と呼びながら、両膝を手で打つのがお約束でした。

その「ピンピンピン」の仕草を僕の前でしたWMさんという女子がいまして、それがきっかけで親密になり、ある日帰宅して彼女の家にお邪魔しました。
彼女の家に行くことを母に話すと、せっかくだからとポテトチップス等のお菓子を持たせてくれて、麻生のアパート住まいの彼女宅にお邪魔すると、彼女が笑いながら
「あらやだ、食いしん坊ね」
と言っていました。
母子家庭でしたが、彼女が札幌にいてのこれまでや僕の釧路時代のことその他を話して盛り上がり、暗くなったところで先の「ピンピンピン」のことを話して、帰宅しました。
帰宅すると、クラスの名簿で母が彼女のお母さんにお礼の電話をしました。

札幌に来てまだ間もないというのに、同級生が吹雪の中声をかけてくれたり、家に呼んでくれたりと、つくづく人間関係に恵まれていたと、今振り返ってもしみじみ感じます。
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  1. 2017/10/11(水) 20:35:49|
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(番外編)初めての稚内⑧

12時52分発の室蘭本線の普通列車の人となって、往路と同様明るいうちに岩見沢から栗沢・栗山・由仁と北海道有数の穀倉地帯を、追分から早来を経ては牛や馬が草をはむ牧草地帯を、車窓から酒とつまみを嗜みつつ眺めました。宗谷線同様北海道時代から今に至るまで乗ったことがない線区だけに、往路同様目を凝らしました。
岩見沢から追分にかけての穀倉地帯は、水稲や小麦、カボチャや玉ねぎ、人参等の野菜ほか、由仁ではリンゴ栽培も盛んです。一方、栗山に近い長沼町では、米が売れないからと水稲からとうもろこしに転換し、面積当たりの収量が米よりも多く主に飼料向けで収益を挙げている農家もいると以前に聞きました。
作物栽培が全地域で盛んな空知管内を出て追分で胆振管内に入り、一昨年38年振りに釧路を訪れたときに乗った石勝線の線路とかつて蒸気機関車の牙城だった広い構内が残る追分駅を後にし、安平、早来、植苗と牛や馬が見られる牧草地帯が続きました。安平は旧追分町と旧早来町が合併して生まれた町名でもありますが、にぎわいは合併前の2町の各中心の追分駅と早来駅に集まっているそうです。安平は牛や馬の飼育が盛んだけに食肉会社も擁し、筆者も藤沢の自宅近くの肉屋さんで安平のその食肉会社で加工されたジンギスカンをこれまで2度買って味わいました。
千歳線の線路と沼ノ端で合流し、札幌の小中学校時代の修学旅行や宿泊学習で何度か寄ったウトナイ湖が車窓右手遠方に見え、上空に新千歳空港に出入りする飛行機が見えて、14時15分、ようやく苫小牧に着きました。

キオスクで缶コーヒーや菓子パンを買って小腹を満たし、商店よりもホテルが目立つ駅前を歩きました。
母づてに父から頼まれた鮭のメフンを探しに魚屋さんを当たりましたが一軒目も二軒目もダメで、母からメールで
「無かったら無くてもいいよ」
と言われていましたが、どうしても諦められず、三軒目の魚屋さんを当たって、ようやくメフンがあり、イカの塩辛と鰊の切り込みと併せて購入し、クール宅配便で茨城県の実家の父に送りました。
聞けば、昨年の鮭の水揚げが例年よりもかなり少なく、その影響で鮭の血合いや内臓の入手量も少なく、メフンが今年は希少ということでした。普段当たり前に食べている魚や肉が、環境その他の影響で取れず食べられないこともある現実を、頭を殴られる思いで突き付けられました。
メフンと切り込みと塩辛を父に送れて安心したところで、苫小牧駅に近接する王子製紙の工場近辺を歩き、引き込み線も見て、この工場からも鉄道で印刷用紙が運ばれていると実感しました。
本当ならもう少し市内を歩きたいところでしたが、雨が降ってきて、雨具を持ってきていなかったので、大急ぎで駅に戻り、また酒とつまみを買って、17時28分の特急「スーパー北斗20号」にするところを一本早い16時27分発の特急「スーパー北斗18号」の人になりました。
往路もでしたが、復路も苫小牧から新函館北斗にかけては下り「北斗」や貨物列車と頻繁にすれ違い、特に貨物列車は、筆者が昔勤めていた会社のコンテナが積まれている列車もあって、懐かしいような思い出したくないような気分になりました。
長万部で一旦降りて長万部温泉につかることも考えましたが、雨がひどかったので諦め、そのまま新函館北斗まで乗って、新幹線に乗り換えました。

キオスクでまた酒とつまみを買って、19時37分発仙台行き「はやぶさ96号」に乗り、窓際席でコンセントをつないで携帯電話を大急ぎで充電しました。駅の待合室やロビーのコンセントでは「盗電」になり注意されてしまうだけに、車内のコンセントはありがたいものでした。
夜ながらもまだ薄明るい中で、車窓左手の函館山を見、青函トンネルに入り北海道に別れを告げ、本州に入ってからは暗いので車窓には目も暮れず酒とつまみに夢中になり、21時45分、盛岡に着きました。

盛岡もかなり降ったようでしたが、着いたときには上がっていて、駅の外に出て、稚内で宿も取れずせわしい旅で風呂もシャワーも浴びれなかったので、駅に近い銭湯を探し、夜行バスに乗る前に汗を洗い流そうと思いましたが、銭湯を見つけたもののちょうど22時の閉店で、入ることができませんでした。
仕方なく歩いてきた道を歩いて駅に戻り、缶コーヒーで喉を潤して、23時10分発の夜行バスに乗り、翌朝6時35分に東京駅に着いて、東海道線で藤沢の自宅に帰りました。平日で時間が時間だけに通勤通学客が多く座れないかと思いましたが、幸い座れ、帰宅したときは稚内での野宿と夜行バスで熟睡できなかっただけに、すぐ横になり夕方まで寝てしまいました。
それでも初めて宗谷線を往復しかつ日本最北端の駅を制覇した満足感は、眠気に勝るものでした。
  1. 2017/09/13(水) 15:23:36|
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(番外編)初めての稚内⑦

10時19分に旭川に着き、まず駅に直結するイオンモールに入り、1階の土産物店や地下の食料品売り場で、母づてに父から頼まれた鮭のメフンと鰊の切り込みそしてイカの塩辛を探しましたが、塩辛だけとか塩辛と切り込みはあってもメフンがなく、まずイオンはパスしました。
駅前の横断歩道を渡り、日本最初の歩行者天国となった平和通買物公園を歩きました。買物公園は北海道時代からテレビや写真で知っていましたが今の今まで行ったことがなく、今回が初めてでした。列車の待ち時間もあって、写真で見ていた公園内の、木内礼智作の「手」の像(上に向けて開いた両手を模した像で両手の間が噴水になっている)や佐藤忠良作の「若い女」の像(裸体の上に上着を羽織った女性が両手を腰に当て、両脚を交差させて立っている像)のある場所までは行かず、専ら駅に近いマルカツデパートやツルハドラッグ辺りまで行きました。
マルカツデパートは、札幌時代に
「この街が好きです」
のフレーズのCMでよく知っていましたが、こちらも入るのは初めてでした。地下にラルズマートがありましたが、既に閉店していて、エスカレーターで最上階まで見て回りました。
東急や大丸、高島屋その他の大手でなく、食料品や衣料品・その他雑貨中心の、地方の典型的な百貨店でしたが、きっと昔は今のイオンみたいににぎわったんだろうと思いました。
マルカツの向かい辺りのビルに食料品中心の店があったので、今度はその地下の魚屋さんで塩辛と切り込みとメフンを探しましたが、メフンだけがなくここも諦めました。
気分転換にコンビニで缶コーヒーを買って飲み、駅に戻って酒とつまみを買って11時00分発の札幌行き特急「カムイ20号」の人となりました。
東京や札幌とさして変わらない旭川のビル中心の駅前風景に別れを告げ、車窓左手の石狩川の風景に目をやり、伊納駅から旧国鉄函館本線跡のサイクリングロードが始まったところで神居トンネルに入り、石狩川対岸の国道12号線が直角に南に曲がる旭川の名所の一つ・神居古潭付近でトンネルを抜けて、後は深川・滝川・砂川・美唄と、緑の田畑や牧場の風景や炭鉱街の面影残る風景を目にして、正午に岩見沢に着きました。
札幌に住み始めた77年暮れに伯母のところに行って以来実に40年振りに下車しましたが、ホームに鉄製のあの独特のそりを引かせた「ばんえい競馬の像」があり、かつて岩見沢でも開催されていたばんえい競馬を偲んでいました。
中央部分が五角形屋根で牧場の牛舎を思わせる先代の駅舎が2000年に焼失して、今は赤れんがを積み上げた、ガラス張りの長方形の駅舎になっていましたが、駅前の商店街は当時とは打って変わって寂しくなっていました。
それでも今風の食堂やスーパーその他の店が軒を並べていて、食料品店があったので、やはり父に頼まれた塩辛と切り込みとメフンを探しましたが、どうしてもメフンだけがなく、岩見沢でも諦めて、時間もちょうどいいころになったので、酒とつまみを買い込んで、12時52分発の室蘭本線の普通列車で苫小牧に向かいました。
  1. 2017/09/05(火) 21:12:23|
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(番外編)初めての稚内⑥

朝9時前入りした復路の名寄は、往路で寄った夜のときとは反対に、飲み屋さんが閉まっていた代わりに、小さな喫茶店やパン屋さんが数軒開いていました。その中で、障害者の人たちが製造と店頭販売を担っているパン屋さんがあり、そこで菓子パンを2個買って朝食にしました。
農業が中心の名寄は、他の周辺市町村と共に、第三次産業が少ないようで、駅前のシャッター通りがそれを物語っていますが、そういう中で医療・福祉従事者の割合が多く、先のパン屋さんや、市内の名寄市立大学に看護や医療系の学部があるだけに、福祉や医療から名寄を新たに活性化できないものかと思いました。
駅近くの国道40号線沿いには道北地区を代表する「西條」という百貨店があり、入ろうとしましたが、まだ10時の開店前で入れず、仕方ないのでセブンやローソンを回ってコーヒーを飲んだりし、知人も誰も訪れるあてがないので、9時25分発の旭川行き特急「サロベツ」の人となりました。
往復共に旭川~名寄間と名寄~稚内間に分かれての宗谷本線全線走破でしたが、列車種別も行きが名寄まで快速で名寄から特急、帰りは名寄まで鈍行で名寄から特急と、名寄まで料金不要の快速か鈍行で名寄から特急というパターンになりました(もっとも道内は特急の自由席乗り放題のフリーきっぷなので別に特急券を買う必要がありませんでしたが)。
自由席に陣取り、行きと同じ明るい中での名寄以南の車窓で、士別の製糖工場横と塩狩駅を通過し、新旭川の製紙工場が見えたところで、前夜に宿が取れず徹夜しただけに睡魔に勝てず寝てしまい、10時19分に旭川に着いたのに気付かず、車掌さんに起こされて下車し、眠い中前日に続き旭川駅前をうろつきました。

  1. 2017/08/22(火) 19:14:31|
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(番外編)初めての稚内⑤

初めての宗谷本線は、往路は名寄までは明るかったのが、名寄から先は真っ暗で見えず終点稚内まで寝てしまいましたが、復路は朝一だっただけに旭川まで明るい中でした。

稚内を出て次の南稚内までは、住宅や商店等の市街地が続きました。稚内駅前は観光案内所や市役所、バスやフェリーのターミナルが主でしたが、南稚内は市場やショッピングセンター等の商業施設が集中していて、稚内駅前よりもにぎやかでした。
また駅のホームも稚内は1面1線なのが南稚内は1面2線な上に車両基地があり、稚内に着いた列車は一旦南稚内に引き返して基地で清掃や点検等を行い、それから稚内に戻って客を乗せて出るようになっています。
南稚内を出ると、しばらくはサロベツ原野の緑の中を、緩やかにアップダウンしながら進みます。特に次の抜海までは、西に日本海と利尻島を望み、晴れた日には通称「利尻富士」と呼ばれる利尻岳がくっきりと見えます。今回は曇り空で島影すら見えませんでしたが、かつての蒸気機関車の時代には、サロベツ原野の緑や利尻富士をバックに走る、C55形蒸気機関車の引く客車普通列車の写真撮影でにぎわいました。
豊富までは駅前にほとんど住人のいない無人駅にことごとく止まり、豊富からは住宅や牧場がちらほらと見えます。
国鉄時代末期まで留萌まで通じていた羽幌線が分かれ、今はトナカイ牧場や雪印のバター工場でにぎわう幌延を出ると、車窓右手に、道内で2番目、国内でも4番目に長い一級河川・天塩川が迫りました。
札幌時代に道内一の石狩川や、首都圏に来て国内一の利根川や国内二の信濃川は見ましたが、天塩川は旭川より真北に行ったことがないだけに、見る機会がありませんでした。
士別市南東の天塩岳に源流を発し、士別市街から幌延まではほぼ宗谷本線に沿って流れ、そこから西に曲がって幌延町郊外と天塩町との境目で日本海に注ぐ天塩川は、石狩川や利根川等の河川に比べてコンクリート等で護岸されている箇所が少なく、自然のままの川岸が多く残されていて、石狩川や利根川と違って見ていて心が和みました。特に幌延から天塩中川までの区間は、線路下の崖っぷちのすぐ横を流れ、その美しさ力強さに、携帯電話のカメラのシャッターを押しました。
天塩中川に差し掛かると、川に加えて市街地や住宅地がちらほら見られ、7時41分に、かつてオホーツク沿岸の浜頓別を経て稚内に通じていた旧JR天北線が分かれていた音威子府に着きました。
山あいの小さな村で、かつては林業、今は木工や音威子府そばで有名で、特にそばは実を皮ごと挽いて打つので、皮の色で真っ黒な麺になり、つゆもそばの色に負けないくらいに味も色も濃いのが特徴です。
駅舎内に音威子府そばの立ち食い店があり、次の列車を待ってそばを堪能しようと思いましたが、店は10~16時まででまだ開店前だったので、大急ぎで音威子府駅正面の写真を撮り、飲み物を調達して列車に戻り、7時44分に音威子府を後にしました。
それまで列車は僕と、人相の悪そうな若い男の撮り鉄の2人だけでしたが、音威子府でその撮り鉄が降り、代わりに年配者や高校生が数人乗ってきました。高校生は音威子府と名寄のほぼ中間の美深で降りました。
美深は85年まで町内の仁宇布(にうぷ)という場所まで、「日本一の赤字ローカル線」の異名を取った旧国鉄美幸線が分かれていました。路線名の通り、美深とオホーツク沿岸の枝幸(えさし)町を結ぶ予定でしたが、仁宇布で止まったまま工事が進まず、そのまま廃止されました。
音威子府から美深を経ては天塩川、市街地や住宅地に加えて森林や農村風景が続き、住宅その他の建物が増えてきたところで、8時47分、再び名寄に戻りました。行きは夜7時の薄暗いときでしたが、帰りは朝の、日差しが少し強いときでした。
  1. 2017/08/14(月) 19:51:47|
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