trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

思わぬ冒険④

立ちっ放しなだけならまだしも、ぎゅうぎゅう詰めで客室でなくドアの前に陣取らざるを得ず、ドアの小さい窓で車窓も十分には楽しめなかった北見からの道中でしたが、10時ごろに旭川に着き、遠軽から名寄本線で中湧別・紋別・興部と北上し、名寄から宗谷本線を南下してきた札幌行き急行「紋別」を併合すると、旭川で客が降りたのと「紋別」を併合した分車両が増えて客が各車両に分散したため、まだ立ちっ放しだったもののようやく客室に入りました。「大雪」が4両、「紋別」が4両の計8両編成になり、乗客一人当たりのスペースに少し余裕ができました。
客室に入れたのでドアのよりも広い窓から車窓を楽しめるようになり、往路の車では楽しめた神居古潭を神居トンネルで抜け、10時半過ぎに深川に着くと、今度は稚内に程近い幌延から羽幌線を南下し、留萌から留萌本線を東進してきた札幌行き急行「はぼろ」を併合し、こちらも4両編成で合わせて12両の長大編成となり、更に乗車スペースが広がりました。
深川駅では、線路が並ぶ広い構内で、羽を真横に広げて押し出すように除雪するスタイルの「幅広(ジョルダン)式」という除雪車がディーゼル機関車に押されて作業をしていました。
北見時代に先頭が三角形で両側に掻き分けるように除雪する「ラッセル車」はよく見ましたが、「幅広式」は図鑑でしか見たことがないだけに、実物が見れて目を見張りました。
また反対側のホームには函館から小樽経由で旭川に向かう特急「北海」が止まり、運転区間表示板の
「函館ー旭川」

「ー」
の真下に
「(小樽経由)」
と書かれていて、こちらも目を見張りました。
青函連絡船に接続していた函館発着の特急は函館~釧路間の「おおぞら」、函館~網走間の「おおとり」、函館~札幌間の「北斗」が長万部~札幌間を距離は長くも平坦で時間が短い室蘭本線・千歳線を経由するために、表示板にも
「(千歳経由)」
と表記されている中で、「北海」は唯一、同区間を距離は短くも山越え続きで時間がかかる函館本線経由で、函館本線を全区間走破する唯一の特急でもあり、千歳経由ばかりな中で唯一の小樽経由だけに目を引きましたが、函館方面に行くアテがなく乗ることもないだろうと思っていたら、後日思いもよらず…。
12両になって深川を出、滝川・砂川・美唄と、「おおぞら」で釧路から札幌に来たときにも見た光景が続き、岩見沢に着くと、北見に急に行く前に泊まった伯母宅に思いをはせ、当時石炭車でにぎわった岩見沢操車場と電気機関車の基地だった岩見沢第二機関区、野幌の北海道百年記念塔を過ぎ、住宅やビル群が見えたところで12時12分、ようやく札幌に着きました。
ホームに母と伯父と上の従兄のYHさんが迎えに来ていて、YHさんが
「お疲れ、お帰り」
と、立ちっ放しだった道中を察してねぎらってくれました。
各自の荷物を持って、母とタクシーで新琴似の自宅に帰り、土産話をして、「5年3組魔法組」の7つの魔法道具のプラモデルを組み立てました。

繰り返しながら、往路が岩見沢から当時21歳の名寄の従兄の運転する車で、復路が白石の10歳の従兄と二人きりでぎゅうぎゅう詰めの急行で立ちっ放しだった北見の旅は、往復共に親の同伴なしだっただけに、まさしく「冒険」でした。復路が大好きな列車なのも楽しかったですが、往路の車も、初めてな上に親戚3人ぐるみで、名寄の従兄とは北見時代にからかわれながらも遊んでもらった上に、以前から札幌を訪れる度に世話になった北郷の従兄と共に、濃密な車中を過ごしました。子供時代に仲間して冒険したことを大人になった当人が回想する映画「スタンド・バイ・ミー」の主題歌が似合いそうな旅でした。
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  1. 2017/11/28(火) 11:58:40|
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思わぬ冒険③

名寄の従兄の車で北見に行ったのが急なら、帰りの急行に乗るのもまさしく急で、当然みどりの窓口に行っても指定席など取れるわけがなく、それでなくても列車は既にぎゅうぎゅう詰めで、自由席急行券で札幌の従兄と二人して立つほかありませんでした。

そもそも客室からしてぎゅうぎゅう詰めで入れず、ドアの前に立ち、祖母と従弟に見送られて北見駅を出ましたが、それでもドアの窓から、客室の窓ほど広くはないにせよ、景色が見えました。
以前なら手動式遮断機の踏切と駅前を通る国道39号線と交差する大きな踏切を渡るところが、前者は歩行者自転車専用跨線橋と自動車用跨線橋に、後者は前年9月18日に開業した、日本で初めての在来鉄道用地下トンネル「北見トンネル」に変わりました。
北見トンネルは、前年夏休みに従弟と散歩して先の歩行者跨線橋を渡ったとき、工事中の北見側出入口が真下に見えました。しかし当時は釧路暮らしで、北見から西の線路に乗ることはもうないだろうから完成したトンネルを通ることもないと思っていただけに、札幌住まいになり再び北見から西の線路に乗り北見トンネルを通ることになって、内心歓声を上げました。
後年知りましたが、現在の西北見駅付近から北見駅にかけてはかつて大小いくつもの踏切が交差し、朝夕のラッシュ時には渋滞が慢性化していたので、この区間をトンネルで地下化し、またトンネルを出た西北見側の地上部分も道路をアンダーパスにして踏切をなくし、渋滞が緩和されたようです。北見時代に自分が風邪でかかり、後に祖母が心臓病でかかった医院そばにも石北線の踏切がありましたが、それも地下に潜りました。
まだ暗い中でも北見トンネルに入ったのはわかりましたが、以後は従兄と二人で早く札幌に着きたいと思うばかりで、車窓には目も暮れず、旭川に着くまでは、遠軽で進行方向が変わったほかは、北見トンネルを出たことも留辺蘂そして幽霊の目撃談が絶えなかった常紋トンネルと常紋信号場を通ったことも気に留まりませんでした。
車窓は見れても見れないも同然のぎゅうぎゅう詰めの中で従兄と立ちっ放しの状態でしたが、すぐ近くだったのが幸いでトイレに困ることがなく、またヤクルトを持たせてくれたので二人して飲んで、わざわざホームの自販機で飲み物を買わなくても喉の渇きをいやせました。

ぎゅうぎゅう詰めの車内で客室でなくドアの前で大人の同伴なしの子供二人しての立ちっ放しは、親でなくても名寄の21歳の従兄が同伴の往路を超えた「冒険」でしたが、白石区の従兄の気持ちはどうあれ、僕は札幌に帰れる安心感と窓からいずれ他の列車が見える楽しみで、緊張感や心細さはありませんでした。
  1. 2017/11/23(木) 19:53:49|
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思わぬ冒険②

補足ながら、1月5日に母の実家から父の実家に移動し、金市舘での買い物から帰宅してテレビをつけると、ちょうどお正月のアニメ映画放送で
「きかんしゃやえもん D51のだいぼうけん」
という作品を放送していて、北見時代にスクリーンで見ただけにうれしく、他のみんなは見たい番組がなかったようなので、そのまま終了まで見ました。
74年公開で、水木一郎さんの歌う力強く勇ましいオープニングをバックに蒸気機関車D51の実写の走行シーンが流れ、スクリーンで実際に見た感動が蘇りました。
「岩波子どもの本」シリーズの一つで阿川弘之さん作の「きかんしゃやえもん」が原作の映画でしたが、クラスでいじめられていた少年が、おじいさんに擬人化されたD51と仲良しで、D51も電気機関車やディーゼル機関車たちにバカにされて肩身が狭かったのが、ある日、2人して町の大泥棒を追っかけて仕留め、少年がいじめっ子たちから、D51も他の車両たちから賞賛を浴びるというハッピーエンドを迎えるものでした。

翌1月6日の朝、寝ていた父の実家の奥の部屋で目が覚めて居間に出ると、従兄のMBさんと従弟のHY君は先に起きていて、祖母が台所で朝ご飯を作っている音が聞こえました。
時計を見ると5時40分で、これから乗る急行列車が始発の網走を出たところでした。
ご飯と味噌汁、焼き魚に卵焼きと、祖母お手製の定番の朝ご飯をみんなして食べ、支度をして、6時ちょうどくらいに、前日に予約していたハイヤーで北見駅に向かいました。
ハイヤーで北見駅に向かうのは北見から釧路に移ったとき以来4年振りでしたが、その時は駅すぐ南方にあった、警報機無しで手動式遮断機のみの踏切のある商店街を通っていたのが、その踏切が歩行者自転車用の跨線橋に変わり、その跨線橋の更にすぐ南にできた自動車用跨線橋を通ったので、新鮮な一方、父の行きつけのホルモン屋さんや保育園の同級生のお肉屋さんラーメン屋さんがあった商店街を経てその踏切を渡ったのが懐かしくもありました。
駅に着くと、正月の帰省での客でごった返していて、その多くが、これから僕たちが乗る札幌行き急行列車を待っていました。
祖母が従弟を連れて窓口で切符を買っている間、僕は従兄と待合室にいました。窓のすぐ前の1番ホームに、前年夏休みに乗った急行「大雪5号」の寝台車が見え、ディーゼル機関車の
「ピョー!」
という汽笛で、6時15分に普通列車となって網走に向けて発車しました。後年、その普通列車で、父が美幌の高校に通っていたことを知りました。
切符を買ってきた祖母が従弟と共に待合室に来て、わずかな間に一緒におしゃべりにふけると、6時20分くらいに改札開始のアナウンスがあり、他の大勢のお客さんと共にみんなして改札に並びました。
ところが、僕と従兄が先に改札を出たところで祖母が改札の人に足止めされ、どうしたかと思ったら、乗車券はあっても急行券がなく、車掌さんから急行券を買うように言われたということでした。
跨線橋を渡り、主に旭川・札幌方面の列車が出る当時の4番ホームに出ると、まだ暗い中、6時34分に網走からライトを明々と照らして急行「大雪1号」が入ってきました。祖母がグリーン車の乗務員室の窓に声をかけて車掌さんを呼び、窓口で事前に買っていなかった旨を話して僕たちの分の急行券を2枚買ってくれました。1枚350円が2枚で700円で、窓から顔を出した車掌さんに1000円札を渡してお釣り300円を受け取り、僕たちに乗車券と共に渡してくれました。
お土産や着替え、そして車内で喉が渇いたときに飲むように入れてくれたヤクルトの入った荷物を従兄と手分けして持って、5分停車後の6時39分
「ファーン!」
という、ディーゼルカー独特の汽笛と共に、祖母と従弟に見送られて、大混雑の中、札幌に向かいました。

季節が年始で冬で暗く寒かった以外は、「大雪5号」の発車を見届け、「大雪1号」に乗って札幌に向かったことが、まさに北見の保育園時代に初めて札幌に行ったときと全く同じ状況でした。そして何より、着の身着のままで行きは21歳の名寄の従兄が運転する車で来たのが、帰りは大人の同伴がなく9歳の自分と10歳の従兄の2人きりで、行き以上の「冒険」が始まろうとしていました。
  1. 2017/11/21(火) 09:24:49|
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(番外編)初めての稚内⑤

初めての宗谷本線は、往路は名寄までは明るかったのが、名寄から先は真っ暗で見えず終点稚内まで寝てしまいましたが、復路は朝一だっただけに旭川まで明るい中でした。

稚内を出て次の南稚内までは、住宅や商店等の市街地が続きました。稚内駅前は観光案内所や市役所、バスやフェリーのターミナルが主でしたが、南稚内は市場やショッピングセンター等の商業施設が集中していて、稚内駅前よりもにぎやかでした。
また駅のホームも稚内は1面1線なのが南稚内は1面2線な上に車両基地があり、稚内に着いた列車は一旦南稚内に引き返して基地で清掃や点検等を行い、それから稚内に戻って客を乗せて出るようになっています。
南稚内を出ると、しばらくはサロベツ原野の緑の中を、緩やかにアップダウンしながら進みます。特に次の抜海までは、西に日本海と利尻島を望み、晴れた日には通称「利尻富士」と呼ばれる利尻岳がくっきりと見えます。今回は曇り空で島影すら見えませんでしたが、かつての蒸気機関車の時代には、サロベツ原野の緑や利尻富士をバックに走る、C55形蒸気機関車の引く客車普通列車の写真撮影でにぎわいました。
豊富までは駅前にほとんど住人のいない無人駅にことごとく止まり、豊富からは住宅や牧場がちらほらと見えます。
国鉄時代末期まで留萌まで通じていた羽幌線が分かれ、今はトナカイ牧場や雪印のバター工場でにぎわう幌延を出ると、車窓右手に、道内で2番目、国内でも4番目に長い一級河川・天塩川が迫りました。
札幌時代に道内一の石狩川や、首都圏に来て国内一の利根川や国内二の信濃川は見ましたが、天塩川は旭川より真北に行ったことがないだけに、見る機会がありませんでした。
士別市南東の天塩岳に源流を発し、士別市街から幌延まではほぼ宗谷本線に沿って流れ、そこから西に曲がって幌延町郊外と天塩町との境目で日本海に注ぐ天塩川は、石狩川や利根川等の河川に比べてコンクリート等で護岸されている箇所が少なく、自然のままの川岸が多く残されていて、石狩川や利根川と違って見ていて心が和みました。特に幌延から天塩中川までの区間は、線路下の崖っぷちのすぐ横を流れ、その美しさ力強さに、携帯電話のカメラのシャッターを押しました。
天塩中川に差し掛かると、川に加えて市街地や住宅地がちらほら見られ、7時41分に、かつてオホーツク沿岸の浜頓別を経て稚内に通じていた旧JR天北線が分かれていた音威子府に着きました。
山あいの小さな村で、かつては林業、今は木工や音威子府そばで有名で、特にそばは実を皮ごと挽いて打つので、皮の色で真っ黒な麺になり、つゆもそばの色に負けないくらいに味も色も濃いのが特徴です。
駅舎内に音威子府そばの立ち食い店があり、次の列車を待ってそばを堪能しようと思いましたが、店は10~16時まででまだ開店前だったので、大急ぎで音威子府駅正面の写真を撮り、飲み物を調達して列車に戻り、7時44分に音威子府を後にしました。
それまで列車は僕と、人相の悪そうな若い男の撮り鉄の2人だけでしたが、音威子府でその撮り鉄が降り、代わりに年配者や高校生が数人乗ってきました。高校生は音威子府と名寄のほぼ中間の美深で降りました。
美深は85年まで町内の仁宇布(にうぷ)という場所まで、「日本一の赤字ローカル線」の異名を取った旧国鉄美幸線が分かれていました。路線名の通り、美深とオホーツク沿岸の枝幸(えさし)町を結ぶ予定でしたが、仁宇布で止まったまま工事が進まず、そのまま廃止されました。
音威子府から美深を経ては天塩川、市街地や住宅地に加えて森林や農村風景が続き、住宅その他の建物が増えてきたところで、8時47分、再び名寄に戻りました。行きは夜7時の薄暗いときでしたが、帰りは朝の、日差しが少し強いときでした。
  1. 2017/08/14(月) 19:51:47|
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(番外編)初めての稚内②

15時55分に特急「ライラック」を降りて、待ち時間に旭川駅周辺を初めて一人で歩き、17時35分、快速列車「なよろ」で、宗谷本線でまず名寄まで北上しました。
旭川四条駅から新旭川駅にかけては、石北本線で故郷・北見に行くのに何度も通っていて見慣れた風景でした。新旭川駅と隣接する日本製紙北海道工場旭川事業所(旧・山陽国策パルプ旭川工場)を後にし、当駅から東に分かれる石北本線の線路に故郷・北見への思いを巡らせて、初めて真北の名寄・稚内方面の線路を通りました。
左手に北旭川という、道北地区最大の貨物駅が見えました。日本の貨物列車の定期運行の北限で、旭川周辺のみならず名寄や稚内、北見・網走方面との貨物も扱う上に、所在地も旭川市のそのものズバリ「流通団地」にあるだけに、近隣の倉庫や工場からの貨物を扱うべく、広いコンテナホームを擁しています。
貨物駅の線路挟んで向かいにはJR北海道の旭川運転所があり、電車と気動車の基地になっています。
旭川市北部の住宅街にある永山を過ぎると、石北本線の新旭川以東と同じような緑の田畑風景が続き、比布(ぴっぷ)に着きました。その地名と駅名から、80年に同音の磁気絆創膏のCMが同駅のホームで収録され、その絆創膏メーカーの会長さんと樹木希林さんとの掛け合いが全国的に大ヒットしました。
その比布を出、宗谷本線の頂上と言われる塩狩駅に着き、ここで上り普通列車との交換や特急「サロベツ」の通過待ちをしました。
塩狩駅はまさしく塩狩峠にある駅で、所在地は和寒町ですが、昔は塩狩峠を境に南が「石狩」、北が「天塩」という国名で、「天塩」の「塩」と「石狩」の「狩」を取って「塩狩峠」と名付けられました。
三浦綾子さんの小説に「塩狩峠」という作品があり、実在の鉄道員・長野政雄氏が、蒸気機関車から外れて峠を逆走する客車に自ら身を投げて下敷きになり、命と引き換えに客車を止めて乗客たちを救った実話を基にしたもので、塩狩駅前にかつて三浦氏が構えていた書斎が、「三浦綾子記念館」として今も健在です。
水系も塩狩峠から南は石狩川水系ですが、ここから北は天塩川水系となって、宗谷本線にほぼ沿うように天塩川その他系列の川が流れます。
塩狩駅を出ると、同駅が所在する和寒町の中心・和寒駅に着きました。和寒は稲作・畑作が中心で、特に畑作ではキャベツの生産が有名で、秋に収穫したキャベツを冬に雪の下で保存し、春先に出荷する「越冬キャベツ」が名物で、雪の冷たさでキャベツが甘くなり、道内の餃子チェーン店で材料に利用しているところもあります。
和寒を出て、剣淵、士別と、時刻表ではかねがね知りながらもどんなところか知る由もなかった駅に止まりました。剣淵は緑の田畑が広がる中にありますが、士別は比較的にぎやかで駅前に市街地を成していました。札幌時代にガイドブックで、めん羊の産地であるほか、かつての名ボクサー・輪島功一さんが育った地でもあることを知りました。また地図で駅北西に製糖工場があることを知りましたが、実際に車窓から見た製糖工場は美幌のそれに勝るとも劣らぬ大きさでした。
士別から先は、今は名寄市に編入された旧・風連町の中心・風連駅ほかに飛び飛びで止まり、19時00分、上川総合振興局内で最北の市・名寄駅に着きました。
名寄はかつて電電公社に勤めていた父方の伯父が本別の次に住んでいて、従兄2人も同じ電電公社に入り、伯父が岩見沢に移ってからも引き続き名寄に勤務していましたが、僕は在道時代からこれまで一度も行くことはなく、今回初めての上陸になりました。
  1. 2017/07/27(木) 21:26:40|
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