trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

NHK「世界の鉄道」

札幌に住み始めた77年の12月1日から29日までの毎週木曜日夜7時半に、NHK総合で「世界の鉄道」という番組が放送されました。
1日から22日までは各30分ずつ、29日は総集編で2時間の放送でした。

1日「イギリス編」
世界最初の鉄道が1830年(貨物用では1825年)に開業したイギリスで、首都ロンドンとスコットランド州の州都エジンバラを結ぶ急行列車「フライング・スコッツマン」が紹介されました。
運転開始から115年間、ロンドン発午前10時を守っていて、戦争で戦闘機や弾丸が飛ぼうと10時発が守られたすごさを感じました。列車名の意味がわかりませんでしたが、後年ロンドンとスコットランドを結ぶがゆえに、和訳で「空飛ぶスコットランド人」となっているのがわかりました。英語で「スコットランドの~」の意を表す形容詞が「スコッチ」よりも「スコッツ」の方がよく使われていることを中学で英語を習ってから知りましたが、この列車名から納得しました。
この列車始め急行列車の華やかさの一方、かつて国内で栄えた炭鉱の閉山で石炭輸送が衰退したあおりで、ローカル線では列車本数や駅員の削減が進み、この場面で紹介された駅は駅員が一人だけで、出札改札清掃をすべて行っていて、日本のローカル線問題が投影されたかのようでした。

8日「インド編」
イギリスの植民地だったインドは、その人口の膨大さと国土の広さから鉄道網が発達し、「鉄道王国」と称されるほどです。
朝夕の通勤通学列車は開けっ放しのドアから人があぶれるくらいで、日本の戦後の復興期さながらでした。
そういう中で紹介された首都ニューデリー発の長距離列車は夜行列車で、菜食主義者(ベジタリアン)が多いインドらしく食堂車がベジタリアン用とノンベジタリアン用にスペースが分かれていたほか、利用者が少ないながらも客を飽きさせないように設けられた図書室があって、日本とは違うと感じました。

15日「ヨーロッパ編」
ドイツのライン河に沿って走る白い車体の特急「ラインゴルド」やフランスのパリ~ニース間を走っていた特急「ミストラル」が紹介されました。
「ラインゴルド」はデパートのおもちゃ売り場によく置いてあったHOゲージの鉄道模型や図鑑で知っていて、電気機関車が丸みを帯びているのが印象的でした。
「ミストラル」も図鑑で知っていましたが、電気機関車がライトグリーンで前面が滑らかな四角のと、シルバーで前面がごつごつした通称「ゲンコツ」との2通りがあり、番組では後者の「ゲンコツ」タイプけん引の方が紹介されました。
けん引される客車もシルバーで、食堂車やバーのほか、ビジネス客向けに秘書室が設けられている車両があったのには目を見張りました。
後年、その「ゲンコツ」タイプの電気機関車が韓国でも走っているのを知り、驚きました。
加えて「ミストラル」が、本来はフランス特有の激しく強い季節風を指す言葉と知り、列車のスピード感と季節風の強さが見事に重なり合いました。

22日「アメリカ編」
イギリスから独立し、開拓のために敷かれたアメリカの鉄道は、7社の民間の鉄道会社が広大な大陸中に路線を延ばし、競って食堂車や寝台車・理容室・展望車付きの豪華列車を走らせ、黄金時代を築きましたが、速い飛行機や安い長距離バスに押されて長距離列車が衰退に追いやられました。
そこで、鉄道会社は貨物専業にし、旅客輸送は民間と政府が折半で出資して設立した「アムトラック」という会社で運営することになりました。
首都ワシントンを中心に走る「メトロライナー」やカリフォルニア州内を走る近郊列車も紹介されましたが、紹介のメインはロサンゼルスからシカゴに向かう「サウスウエスト・リミテッド」という長距離列車でした。
同区間を2泊3日で走るところは広大なアメリカならではで、アメリカではおなじみの「ドッグノーズ」と呼ばれる、犬の頭の形をした大型ディーゼル機関車が3両で13両の客車を引くスケールの大きさに目を奪われました。客車は2等の座席車と1等の寝台車に分かれていて、座席はフルリクライニングシート、寝台はトイレとシャワーの付いた個室で、しかも座席車と展望車と食堂車は2階建てで、見てて飽きませんでした。
中間地点のアルバカーキでは給油・給水のために15分止まり、乗客たちが外に出て駅の自販機でコーラを買って飲んでいるところにもアメリカらしさを感じました。
シカゴに着く前に、長い長い貨物列車が通過するのを待ちましたが、アメリカの鉄道が貨物優先のダイヤで、乗客も承知していて、車掌も乗客を退屈させないようにトランプの相手をしたりしていました。
列車内での乗客へのインタビューでは、若いカップルが
「車社会のアメリカでは鉄道はもう長くはないだろう」
と否定的でしたが、その他の陽気なおじさんや老夫婦、休暇中の女性たちは鉄道を支持していて、車社会のアメリカでも鉄道を支持する人たちは多数ということでした。
北見時代にアメリカ型の鉄道模型を買ってもらえなかったこともあって、このアメリカ編は他の国よりもずっと前のめりで見ました。本列車もそうですが、長い貨物列車はバリエーション豊かな貨車が何両も連なっていてなおさら釘付けでした。
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  1. 2017/05/29(月) 00:11:41|
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図書室で保育園時代の本に再会

釧路の小学校よりも蔵書が充実していたのもあって、授業の2限目と3限目の間や給食後の休み時間に図書室に入り浸りましたが、新たに見る鉄道の図鑑にエジソンや野口英世等の伝記、学研刊の「○○のひみつ」シリーズその他に食い入る一方で、北見の保育園時代に親しんだ絵本もあり、懐かしくて見入りました。
「おさるのジョージ」シリーズやかこさとし先生作の「だるまちゃん」シリーズや「こどものカレンダー」等のポピュラーなのもありましたが、そういう中で、鉄道好きの僕が保育園時代に先生に読んでもらったり、自分でも読んだ本がありました。

「おくびょうきかんしゃ」
暗闇等の危険な場所が苦手で「19474」の番号さながらに「いくじなし」のヨーロッパの蒸気機関車が、他の大型機関車の窮地を救い、これまでの悪評を大きく挽回する物語ですが、保育園時代の昼寝の時間前に先生に読んでもらった思い出があり、その後しばらく本書のことを忘れていました。
下級生が目の前で読んでいたので、読み終わってから読み、後日改めて借りようとしましたが、なぜか貸し出し禁止図書になっていて、何とも妙な気分になりました。

「やまのきかんしゃ」
こちらは日本が舞台で、C11や12タイプの小型タンク式蒸気機関車が、大きな駅でD51やC62タイプの大型テンダー式蒸気機関車にバカにされながらも毎日山道のローカル線で客車や貨車を引っ張って頑張っていたのが、ある日そのバカにしていた大型機関車が山道で立ち往生し、その小型機関車が応援で駆け付けてその列車を後押しして無事山を越え、大型機関車たちの賞賛を浴びる物語です。

いずれも当時は物語の内容など知る由もありませんでしたが、振り返ると、いずれも小型で何かしらバカにされていた機関車が、バカにしていた大型機関車の窮地を救って名誉を挽回するという内容で、そのサクセスストーリーさに引かれていたのだと思います。

図書室で再会した後者の「やまのきかんしゃ」を借り、教室に戻ると、何かミーティングをしていて、クラスの人たちが出席番号順に先生に呼ばれて一人一人何か話をしていて、ちょうど戻ってきた僕の番が最後で、何の話かと思ったら、釧路の小学校時代にもあった、居住区域ごとのミーティングの教室を割り当てていたところでした。
ミーティング中に僕がそんなことも知らずに図書室に行っていて、近くの席の人が心配していましたが、そういうことをよそに図書室から教室に戻り、事の次第を知りました。
ミーティングが終わり、それぞれの区域ごとに割り当てられた教室へ行って、冬休みを控えていたので休み中の注意や吹雪等緊急時の集団下校の心得等を担当の先生から説明を受けて、解散し、掃除当番以外の人たちはそのまま直帰しました。

釧路時代の通学区域の割り当ては
「○○分団」
と、あたかも消防団の区域みたいな呼び方でしたが、札幌では単に
「1班、2班…」
と、ごく一般的な番号順の呼び方でした。

ともあれ、釧路時代と同様の、学期半ばや長期休暇前の居住区域別ミーティングは、他のクラスや学年の人たちとも顔を合わせる数少ない機会で、ちょっとした息抜きにもなるひと時でした。
  1. 2017/05/15(月) 19:20:25|
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初めての列車の旅

本来ならブログ開始のころに書くところでしたが、初めて北見から札幌に行った記憶の陰に隠れて印象が薄く省略したのが、最近になって鮮烈に思い出されてきたので、今ここで書きます。

北見時代の、まだ物心がつく前の2歳のときでしたが、父と2人で、当時本別に住んでいた父方の伯母夫婦のところに初めて行きました。
仕事から帰ってきた父に連れられて、薄暗い夕方6時くらいに北見駅に行き、改札を抜けて跨線橋を渡って、2番線と4番線のホームの南側に当時あった切り欠きホームの3番線に止まっていた国鉄池北線(後にJR→北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線、2006年4月廃止)のディーゼルカーに乗りました。思えばこれが人生初の列車の旅でした。跨線橋を渡る前に改札側の1番線に立ち食いそばがあり、こうこうと明かりが照る店内に眼鏡をかけたおばちゃんが立っていました。きっと駅を利用する通勤通学や旅行客のおなかを以前から満たしていたのでしょう。
暗闇の中、列車は汽笛を鳴らして、一路池北線を南下して池田に向かいました。僕はまだ2歳で、ディーゼルカーに乗った以外は列車がどこ行きとか何駅に止まったことなどわかりませんでしたが、外が真っ暗で車窓から何も見えない中、線路沿いに照らされていた「Fanta」の看板だけがくっきりと見えました。当時は線路や道路沿いに「Fanta」や「Coca-cola」の看板がよく立っていて、テレビCMと併せてすっかり製品名が幼心にも刷り込まれました。
よくわからないまま時間が過ぎて、夜9時前だったと思いますが、十勝管内の本別駅に着き、伯母夫婦の家にお邪魔しました。
夜遅かったので、父は伯父と一杯やり、僕はそれをただぼんやり眺めて、間もなく布団に入りました。伯母が横に来て、子供向けの本を読んでくれました。伯母宅には2人の従兄がいて、その従兄のために買った「ピノキオ」等の世界の童話の本がずらりと並んでいて、伯母夫婦がそのうちの「ピノキオ」を僕にくれました。

翌朝起きて、父と朝ごはんをごちそうになりました。焼いた塩鮭のほぐし身をご飯に乗せてお湯をかけただけの、気持ち薄味のお茶漬けを食べました。自宅ではお茶漬けは「お茶漬け海苔」をかけていただけに、塩鮭とお湯だけのお茶漬けは当時の僕には物足りない気分でしたが、そのシンプルなお茶漬けのおいしさは、大きくなって一人暮らしで自炊して初めて知ることになりました。
朝ごはんが済んで、帰りは伯父が車で北見まで乗せてくれました。車の窓は手動ハンドルで回すのでなく、ボタンを押して電動で開け閉めするタイプで、70年の当時としては実に先進的で度肝を抜かれました。
車は行きに乗った国鉄池北線にほぼ沿うように道路を走り、その両脇は一面の畑や牧場が広がって、昔から続く十勝の農業の広大さが感じられました。
いつしか車は網走管内に入り、林業が盛んな置戸や訓子府らしく木々が目立ちました。池北線の線路が車窓右手に移り、線路の向こうに上常呂駅から引き込み線が通じていた製糖工場と後年知る白い建物の工場が見え、ようやく北見の自宅に帰りました。伯父は隣接する祖父母宅の前に車を止め、祖父母宅にお邪魔してお茶を飲んだり何なりして本別に帰りました。

その後、僕が保育園に入った72年にその本別の上の従兄が、翌73年に下の従兄が北見工業高校に入り、共に祖父母宅に下宿して通いました。従兄2人は妹には優しく僕には少々意地悪いところがありましたが、それでも一緒に遊んでくれました。
その間、伯母夫婦は伯父が勤めていた電電公社の転勤で名寄を経て岩見沢に移り、僕も父の転勤で釧路を経て札幌に移って互いに近くなり、再会することになりました。従兄2人は高校卒業後伯父と同じ電電公社に勤め、共に名寄勤務になりました。
  1. 2017/05/01(月) 10:53:40|
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岩見沢の伯母宅へ②

一夜明けて12月11日の日曜になり、伯母宅そばの国道12号線を頻繁に通過する車の音を聴きながら目が覚め、朝ごはんをごちそうになりました。
その後、いつもならNHKの朝8時からの「スタジオからこんにちは」、HBCで8時半からのHBC「時事放談」、9時からの「兼高かおる世界の旅」、9時半からの道内レポート番組「ほっかいどう」、10時からの「世界のこどもたち」、そしてSTV11時からの「スター誕生!」と家族して午前中はテレビ漬けになるところが、久々に伯母宅にお邪魔しただけに、テレビも付けず伯父たち共々昨日に続いて北見での話で盛り上がりました。
話をしているうちに、壁に貼られていた岩見沢駅の時刻表に目が留まり、同じ函館本線の道央圏だけに札幌駅同様列車本数が多く、最終列車の到着が23時57分と日付が変わる寸前で驚きました。加えて室蘭本線・幌内線・万字線の時刻も載っていて、くぎ付けになりました。
伯父がその様子を見て僕に
「北見に行く列車とその時刻を教えて」
と言ったので、時刻表を上から順に見て、到着駅とその時刻の欄に
「網走○○:○○」
と書いてある列車の発車時刻を教えました。当時岩見沢から北見に向かう列車というと、札幌~網走間の特急「オホーツク」1往復と急行「大雪」が昼行2往復(うち1往復は網走から先釧路まで往復)夜行1往復、函館~網走間の特急「おおとり」1往復の計5往復でした。
伯父たちと話をしながら時刻表に見入っていると、ほかに名寄行き急行「なよろ」、また同じ札幌発着の「大雪」でも遠軽から先は北見や網走と反対に名寄本線を北上して下り興部着・上り名寄発(つまり下りは札幌→遠軽→紋別→興部、上りは名寄→興部→紋別→遠軽→札幌)という列車があるのを知り、前週日曜日に知った稚内や留萌方面への列車と共に、つくづく札幌や岩見沢といった道央圏は道内各地からの列車が集まっていると驚きました。
伯母が作ってくれた昼ごはんをごちそうになり、おいとましてバスで岩見沢駅に行き、行きのディーゼルカーですれ違った赤い電車の各駅停車で帰宅しました。夏休みに乗った電気機関車の引く客車急行に続いて、今度は国鉄電車の各駅停車に初めて乗り、札幌の地下鉄と併せてこの年は僕にとって鉄道電気車両「デビュー」の年になりました。
  1. 2017/03/17(金) 16:30:35|
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(祖母追悼) 祖母北見に帰る

北見時代そして北見に帰る度にあれこれ良くしていただいた母方の祖母が、本日午前、帰らぬ人となりました。昨年末に肺炎で緊急入院し、どうにか年を越して来月末の白寿を控えていた矢先だけに、言葉が見つかりません。
そういうわけで、順番を変更して、祖母が北見に帰ったときのことを先に書きます。

釧路に来て引っ越しを手伝い、札幌まで一緒に来てくれた母方の祖母が、荷物が片付き、父も僕も妹もそれぞれ新しい職場や学校に通い始めて落ち着いた12月4日の日曜日、北見に帰ることになりました。
昼過ぎに家族5人して新琴似小学校前のバス停から当時地下鉄南北線の北の終点だった北24条駅までバスに乗り、乗り継ぎ割引券を受け取って地下鉄でさっぽろ駅まで行き、国鉄札幌駅に出ました。
改札前で先に札幌に転勤していた帯広の伯母と合流し、駅地下や周辺の店で北見へのお土産を買い、食堂で昼食を食べたりしているうちに、15時半を回り、祖母の列車を待つべく改札前に並びました。
北の都というだけに、札幌駅の列車の発着本数は今まで住んでいた北見や釧路の比ではなく、改札前の1番線や向かいの2・3番線だけでも列車の発着が目まぐるしく、更に向こうの4~9番線は推して知るべしでした。当然人の量も多いだけに、父が僕に笑顔で
「札幌は広いから、はぐれたら家に帰れなくなるから気を付けてな」
と耳打ちしました。
改札真上の、発着時刻の近い列車を表示する反転式フラップ表示の時刻表を見ると、初めて札幌に行った帰りに乗った網走行き特急「おおとり」その他に交じって
「急行 宗谷 函館15:50 稚内15:55」
という表示を見て、函館と稚内を結ぶ「宗谷」という急行があるのを初めて知りました。列車は札幌に15時50分に着き、55分に出るダイヤでしたが、函館からは千歳経由でなく小樽経由で、しかも稚内方面へは釧路や網走方面と違ってまだ特急がなく、この「宗谷」が稚内方面へは最優等列車で、札幌のみならず函館で青函連絡船に接続して本州とも結んでいたのがわかりました。同時に列車名から3月にNHK「みんなのうた」で流れて僕も同月に釧路での学級お別れ会で歌ったダ・カーポの「宗谷岬」の歌詞が蘇り、更に列車が長万部~小樽間の山線の峠の数々を力強く越えて雄大な北海道の大自然の中を走りながら道内や本州からの客を日本最北の稚内まで運ぶ様子が目に浮かびました。
ふと我に返り、改札前の1番線を見ると、赤い電気機関車に引かれた茶色や青の客車鈍行が滑り込んできました。真上の時刻表を見ると、岩見沢から倶知安に向かう普通列車で、きっと小樽から先はディーゼル機関車に付け替えられるんだろうと興味津々で見ました。
再び我に返り、騒がしくなったので時刻表を見ると、祖母が乗る17時02分発網走行き急行「大雪4号」の時刻が迫り、改札が始まったので、祖母は乗車券と自由席急行券を、僕たち家族4人と伯母は入場券を持って改札を出て跨線橋を渡り6番線に降り、車内まで祖母の荷物を運びました。みんなして空いてる席に座り、向かいの5番線の列車が発車したのを見て、父が
「ほら発車したぞ!」
と、向かいの列車が発車したのがうちらの列車が発車したかのように見えたので、そういう冗談を飛ばして、みんなして笑いました。
列車は深川から留萌線と羽幌線を経由して幌延まで行く急行「はぼろ」と、旭川から宗谷線・名寄線で名寄・興部・紋別を経由して遠軽まで遠回りで行く急行「紋別」を併結しており、後にその上りバージョンが僕が初めて札幌に行ったときに乗った「大雪1号」と知りました。
時刻も迫ったので、僕たちと伯母は列車から降りて祖母を見送り、まだ発車しないうちに駅を出て地下鉄とバスで帰宅しました。

帰宅すると夕食を取りながら「サザエさん」を見、それからNHKの7時のニュースを見ました。父が勤め人らしく全国のニュースに真剣に目を光らせていたところで道内のニュースに移ると、祖母が乗った急行「大雪4号」が、滝川付近の踏切でトラックと衝突したニュースが流れ、家族みんなして
「ばあちゃん大丈夫か」
と心配しました。列車は大丈夫だったようですが、トラックが破損し、遅れは必至でした。
ニュースが終わり、当時三波伸介さんと中村メイコさんが主演していた「お笑いオンステージ」と萩本欽一さんが司会をしていた「オールスター家族対抗歌合戦」を見て、祖母の安否を気遣いながら9時に妹と共に寝ました。

翌5日の月曜日、学校から帰って母に祖母の安否を伺ったところ、案の定列車は大幅に遅れて、北見に着いたのが10時半のところが夜中の12時だったということでした。トラックとの衝突だけにどうなったことかと思いましたが、列車は破損がなく、祖母もケガ一つなく無事で、僕たちみんなして安心しました。

この場をお借りして、おばあちゃん、来月の白寿は迎えられなかったけど、何とか年を越して頑張ったね。僕が北見に住んでいたり、釧路や札幌のころも北見に行く度行く度伯母や従兄たちと一緒に良くしてもらって、思い出は尽きません。どうか安らかにお眠りください。そして遠い空から僕たちを見守ってください。合掌。
  1. 2017/02/15(水) 19:48:25|
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