trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

(番外編)初めての稚内①

ブログ本編は77年の年末を迎えようとしていますが、今は首都圏住まいの筆者は、北海道内でも住んでいた当時から今まで、行ったことない場所がまだまだあります。
その一つ、北海道そして日本最北端の稚内に、先月ようやく行って参りました。
北見の伯母と下の従兄が80年に行ったことがありますが、僕の方は自身も両親も妹もまだ誰も行ったことがなく、いつか必ずと念願して成就の運びとなりました。

6月19日の月曜日の23時10分、筆者は東京駅八重洲口の高速バスターミナルにいました。
鉄道好きの僕としては、稚内へは東京から新函館北斗まで新幹線といきたいところですが、稚内ほか苫小牧や名寄にも寄りたく、東京から朝の新幹線では苫小牧や名寄に寄る時間が取れないので、盛岡まで夜行バスを利用して、盛岡始発の朝の新幹線で早めに北海道に上陸するスケジュールを組みました。
その日の仕事を終えて荷物をまとめて夜行バスの人となり、翌20日の朝6時35分に盛岡駅に着き、同54分発の新幹線で新函館北斗に向かいました。東京から盛岡まで夜行列車があるといいのにと思いましたが、現実に夜行列車がない以上、夜行バスをうまく使うことにしました。
以前は夜行急行「はまなす」で通った青函トンネルを、昨春開業して1年が過ぎた北海道新幹線で初めて通り、木古内からは車窓右手に函館山を望みながら、9時03分、かつて「渡島大野」という駅名で周囲は畑がほとんどだった新函館北斗に着き、そこから同12分、札幌行き特急「スーパー北斗」に乗りました。
新函館北斗から大沼までは下り勾配でスピードダウン気味でしたが、大沼からは風光明媚な大沼の風景、駅弁「いかめし」で有名な森駅に近付くと右手に駒ヶ岳が偉容をたたえ、その後は長万部・洞爺・伊達紋別・東室蘭・登別と、北海道時代そして首都圏に来て北海道に行くときに大体通ったおなじみの駅や風景が流れて、正午前に苫小牧に着きました。
それからどうするかと思いましたが、小樽行きの普通列車で次の沼ノ端まで行き、下車して1時間程、気まぐれに歩いて往復できるところまで行き、13時半過ぎに沼ノ端に戻り、すぐに来た岩見沢行き普通列車で岩見沢に向かいました。
岩見沢までは室蘭線をひた走りでしたが、追分・由仁・栗山を経て岩見沢までの線路は、北海道時代から乗ったことがないだけに、畑や牧場が広がる沿線風景に目を張りました。かつて夕張や幌内その他からの石炭を苫小牧や室蘭の港まで運んでいたそうですが、その面影はみじんも感じられませんでした。
岩見沢に着き、そこからは特急「カムイ」で旭川に向かいました。故郷北見に行って以来7年振りの札幌以北の線路で、しかも札幌を通らずに岩見沢以北へ行くのは初めてでした。
その後は美唄・砂川・滝川・深川と停車しましたが、7年前に通ったとき既に、石炭の集散地で、構内に引き込み線が多く石炭を積んだ貨車でにぎわっていた美唄と砂川は、その引き込み線跡が整地されて駐車場や建物が建っていて、やはり当時の面影はみじんも感じられませんでした。
旭川に着くと、話に聞いていましたが、7年前とは打って変わってすっかりホームが高架線になり、新しく駅ビルが建ってイオンが入っていて、首都圏でおなじみのチェーン店がイオン内に並んでいて、北海道らしさが薄れていました。
それでも、列車を待つ間に、西口の買物公園を初めて歩き、市内老舗の百貨店マルカツや閉店した旭川西武の建物を見、駅前広場の露店で焼き鳥と酎ハイで一杯やった後、今度は東口に行き、西口とは打って変わって石狩川水系の忠別川がすぐそばを流れ、遠くに大雪山を望む風景に目を丸くしました。そして、初めての、旭川から真北への旅へ心の準備をしました。
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  1. 2017/07/12(水) 20:22:02|
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NHK「世界の鉄道」

札幌に住み始めた77年の12月1日から29日までの毎週木曜日夜7時半に、NHK総合で「世界の鉄道」という番組が放送されました。
1日から22日までは各30分ずつ、29日は総集編で2時間の放送でした。

1日「イギリス編」
世界最初の鉄道が1830年(貨物用では1825年)に開業したイギリスで、首都ロンドンとスコットランド州の州都エジンバラを結ぶ急行列車「フライング・スコッツマン」が紹介されました。
運転開始から115年間、ロンドン発午前10時を守っていて、戦争で戦闘機や弾丸が飛ぼうと10時発が守られたすごさを感じました。列車名の意味がわかりませんでしたが、後年ロンドンとスコットランドを結ぶがゆえに、和訳で「空飛ぶスコットランド人」となっているのがわかりました。英語で「スコットランドの~」の意を表す形容詞が「スコッチ」よりも「スコッツ」の方がよく使われていることを中学で英語を習ってから知りましたが、この列車名から納得しました。
この列車始め急行列車の華やかさの一方、かつて国内で栄えた炭鉱の閉山で石炭輸送が衰退したあおりで、ローカル線では列車本数や駅員の削減が進み、この場面で紹介された駅は駅員が一人だけで、出札改札清掃をすべて行っていて、日本のローカル線問題が投影されたかのようでした。

8日「インド編」
イギリスの植民地だったインドは、その人口の膨大さと国土の広さから鉄道網が発達し、「鉄道王国」と称されるほどです。
朝夕の通勤通学列車は開けっ放しのドアから人があぶれるくらいで、日本の戦後の復興期さながらでした。
そういう中で紹介された首都ニューデリー発の長距離列車は夜行列車で、菜食主義者(ベジタリアン)が多いインドらしく食堂車がベジタリアン用とノンベジタリアン用にスペースが分かれていたほか、利用者が少ないながらも客を飽きさせないように設けられた図書室があって、日本とは違うと感じました。

15日「ヨーロッパ編」
ドイツのライン河に沿って走る白い車体の特急「ラインゴルド」やフランスのパリ~ニース間を走っていた特急「ミストラル」が紹介されました。
「ラインゴルド」はデパートのおもちゃ売り場によく置いてあったHOゲージの鉄道模型や図鑑で知っていて、電気機関車が丸みを帯びているのが印象的でした。
「ミストラル」も図鑑で知っていましたが、電気機関車がライトグリーンで前面が滑らかな四角のと、シルバーで前面がごつごつした通称「ゲンコツ」との2通りがあり、番組では後者の「ゲンコツ」タイプけん引の方が紹介されました。
けん引される客車もシルバーで、食堂車やバーのほか、ビジネス客向けに秘書室が設けられている車両があったのには目を見張りました。
後年、その「ゲンコツ」タイプの電気機関車が韓国でも走っているのを知り、驚きました。
加えて「ミストラル」が、本来はフランス特有の激しく強い季節風を指す言葉と知り、列車のスピード感と季節風の強さが見事に重なり合いました。

22日「アメリカ編」
イギリスから独立し、開拓のために敷かれたアメリカの鉄道は、7社の民間の鉄道会社が広大な大陸中に路線を延ばし、競って食堂車や寝台車・理容室・展望車付きの豪華列車を走らせ、黄金時代を築きましたが、速い飛行機や安い長距離バスに押されて長距離列車が衰退に追いやられました。
そこで、鉄道会社は貨物専業にし、旅客輸送は民間と政府が折半で出資して設立した「アムトラック」という会社で運営することになりました。
首都ワシントンを中心に走る「メトロライナー」やカリフォルニア州内を走る近郊列車も紹介されましたが、紹介のメインはロサンゼルスからシカゴに向かう「サウスウエスト・リミテッド」という長距離列車でした。
同区間を2泊3日で走るところは広大なアメリカならではで、アメリカではおなじみの「ドッグノーズ」と呼ばれる、犬の頭の形をした大型ディーゼル機関車が3両で13両の客車を引くスケールの大きさに目を奪われました。客車は2等の座席車と1等の寝台車に分かれていて、座席はフルリクライニングシート、寝台はトイレとシャワーの付いた個室で、しかも座席車と展望車と食堂車は2階建てで、見てて飽きませんでした。
中間地点のアルバカーキでは給油・給水のために15分止まり、乗客たちが外に出て駅の自販機でコーラを買って飲んでいるところにもアメリカらしさを感じました。
シカゴに着く前に、長い長い貨物列車が通過するのを待ちましたが、アメリカの鉄道が貨物優先のダイヤで、乗客も承知していて、車掌も乗客を退屈させないようにトランプの相手をしたりしていました。
列車内での乗客へのインタビューでは、若いカップルが
「車社会のアメリカでは鉄道はもう長くはないだろう」
と否定的でしたが、その他の陽気なおじさんや老夫婦、休暇中の女性たちは鉄道を支持していて、車社会のアメリカでも鉄道を支持する人たちは多数ということでした。
北見時代にアメリカ型の鉄道模型を買ってもらえなかったこともあって、このアメリカ編は他の国よりもずっと前のめりで見ました。本列車もそうですが、長い貨物列車はバリエーション豊かな貨車が何両も連なっていてなおさら釘付けでした。
  1. 2017/05/29(月) 00:11:41|
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図書室で保育園時代の本に再会

釧路の小学校よりも蔵書が充実していたのもあって、授業の2限目と3限目の間や給食後の休み時間に図書室に入り浸りましたが、新たに見る鉄道の図鑑にエジソンや野口英世等の伝記、学研刊の「○○のひみつ」シリーズその他に食い入る一方で、北見の保育園時代に親しんだ絵本もあり、懐かしくて見入りました。
「おさるのジョージ」シリーズやかこさとし先生作の「だるまちゃん」シリーズや「こどものカレンダー」等のポピュラーなのもありましたが、そういう中で、鉄道好きの僕が保育園時代に先生に読んでもらったり、自分でも読んだ本がありました。

「おくびょうきかんしゃ」
暗闇等の危険な場所が苦手で「19474」の番号さながらに「いくじなし」のヨーロッパの蒸気機関車が、他の大型機関車の窮地を救い、これまでの悪評を大きく挽回する物語ですが、保育園時代の昼寝の時間前に先生に読んでもらった思い出があり、その後しばらく本書のことを忘れていました。
下級生が目の前で読んでいたので、読み終わってから読み、後日改めて借りようとしましたが、なぜか貸し出し禁止図書になっていて、何とも妙な気分になりました。

「やまのきかんしゃ」
こちらは日本が舞台で、C11や12タイプの小型タンク式蒸気機関車が、大きな駅でD51やC62タイプの大型テンダー式蒸気機関車にバカにされながらも毎日山道のローカル線で客車や貨車を引っ張って頑張っていたのが、ある日そのバカにしていた大型機関車が山道で立ち往生し、その小型機関車が応援で駆け付けてその列車を後押しして無事山を越え、大型機関車たちの賞賛を浴びる物語です。

いずれも当時は物語の内容など知る由もありませんでしたが、振り返ると、いずれも小型で何かしらバカにされていた機関車が、バカにしていた大型機関車の窮地を救って名誉を挽回するという内容で、そのサクセスストーリーさに引かれていたのだと思います。

図書室で再会した後者の「やまのきかんしゃ」を借り、教室に戻ると、何かミーティングをしていて、クラスの人たちが出席番号順に先生に呼ばれて一人一人何か話をしていて、ちょうど戻ってきた僕の番が最後で、何の話かと思ったら、釧路の小学校時代にもあった、居住区域ごとのミーティングの教室を割り当てていたところでした。
ミーティング中に僕がそんなことも知らずに図書室に行っていて、近くの席の人が心配していましたが、そういうことをよそに図書室から教室に戻り、事の次第を知りました。
ミーティングが終わり、それぞれの区域ごとに割り当てられた教室へ行って、冬休みを控えていたので休み中の注意や吹雪等緊急時の集団下校の心得等を担当の先生から説明を受けて、解散し、掃除当番以外の人たちはそのまま直帰しました。

釧路時代の通学区域の割り当ては
「○○分団」
と、あたかも消防団の区域みたいな呼び方でしたが、札幌では単に
「1班、2班…」
と、ごく一般的な番号順の呼び方でした。

ともあれ、釧路時代と同様の、学期半ばや長期休暇前の居住区域別ミーティングは、他のクラスや学年の人たちとも顔を合わせる数少ない機会で、ちょっとした息抜きにもなるひと時でした。
  1. 2017/05/15(月) 19:20:25|
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初めての列車の旅

本来ならブログ開始のころに書くところでしたが、初めて北見から札幌に行った記憶の陰に隠れて印象が薄く省略したのが、最近になって鮮烈に思い出されてきたので、今ここで書きます。

北見時代の、まだ物心がつく前の2歳のときでしたが、父と2人で、当時本別に住んでいた父方の伯母夫婦のところに初めて行きました。
仕事から帰ってきた父に連れられて、薄暗い夕方6時くらいに北見駅に行き、改札を抜けて跨線橋を渡って、2番線と4番線のホームの南側に当時あった切り欠きホームの3番線に止まっていた国鉄池北線(後にJR→北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線、2006年4月廃止)のディーゼルカーに乗りました。思えばこれが人生初の列車の旅でした。跨線橋を渡る前に改札側の1番線に立ち食いそばがあり、こうこうと明かりが照る店内に眼鏡をかけたおばちゃんが立っていました。きっと駅を利用する通勤通学や旅行客のおなかを以前から満たしていたのでしょう。
暗闇の中、列車は汽笛を鳴らして、一路池北線を南下して池田に向かいました。僕はまだ2歳で、ディーゼルカーに乗った以外は列車がどこ行きとか何駅に止まったことなどわかりませんでしたが、外が真っ暗で車窓から何も見えない中、線路沿いに照らされていた「Fanta」の看板だけがくっきりと見えました。当時は線路や道路沿いに「Fanta」や「Coca-cola」の看板がよく立っていて、テレビCMと併せてすっかり製品名が幼心にも刷り込まれました。
よくわからないまま時間が過ぎて、夜9時前だったと思いますが、十勝管内の本別駅に着き、伯母夫婦の家にお邪魔しました。
夜遅かったので、父は伯父と一杯やり、僕はそれをただぼんやり眺めて、間もなく布団に入りました。伯母が横に来て、子供向けの本を読んでくれました。伯母宅には2人の従兄がいて、その従兄のために買った「ピノキオ」等の世界の童話の本がずらりと並んでいて、伯母夫婦がそのうちの「ピノキオ」を僕にくれました。

翌朝起きて、父と朝ごはんをごちそうになりました。焼いた塩鮭のほぐし身をご飯に乗せてお湯をかけただけの、気持ち薄味のお茶漬けを食べました。自宅ではお茶漬けは「お茶漬け海苔」をかけていただけに、塩鮭とお湯だけのお茶漬けは当時の僕には物足りない気分でしたが、そのシンプルなお茶漬けのおいしさは、大きくなって一人暮らしで自炊して初めて知ることになりました。
朝ごはんが済んで、帰りは伯父が車で北見まで乗せてくれました。車の窓は手動ハンドルで回すのでなく、ボタンを押して電動で開け閉めするタイプで、70年の当時としては実に先進的で度肝を抜かれました。
車は行きに乗った国鉄池北線にほぼ沿うように道路を走り、その両脇は一面の畑や牧場が広がって、昔から続く十勝の農業の広大さが感じられました。
いつしか車は網走管内に入り、林業が盛んな置戸や訓子府らしく木々が目立ちました。池北線の線路が車窓右手に移り、線路の向こうに上常呂駅から引き込み線が通じていた製糖工場と後年知る白い建物の工場が見え、ようやく北見の自宅に帰りました。伯父は隣接する祖父母宅の前に車を止め、祖父母宅にお邪魔してお茶を飲んだり何なりして本別に帰りました。

その後、僕が保育園に入った72年にその本別の上の従兄が、翌73年に下の従兄が北見工業高校に入り、共に祖父母宅に下宿して通いました。従兄2人は妹には優しく僕には少々意地悪いところがありましたが、それでも一緒に遊んでくれました。
その間、伯母夫婦は伯父が勤めていた電電公社の転勤で名寄を経て岩見沢に移り、僕も父の転勤で釧路を経て札幌に移って互いに近くなり、再会することになりました。従兄2人は高校卒業後伯父と同じ電電公社に勤め、共に名寄勤務になりました。
  1. 2017/05/01(月) 10:53:40|
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岩見沢の伯母宅へ②

一夜明けて12月11日の日曜になり、伯母宅そばの国道12号線を頻繁に通過する車の音を聴きながら目が覚め、朝ごはんをごちそうになりました。
その後、いつもならNHKの朝8時からの「スタジオからこんにちは」、HBCで8時半からのHBC「時事放談」、9時からの「兼高かおる世界の旅」、9時半からの道内レポート番組「ほっかいどう」、10時からの「世界のこどもたち」、そしてSTV11時からの「スター誕生!」と家族して午前中はテレビ漬けになるところが、久々に伯母宅にお邪魔しただけに、テレビも付けず伯父たち共々昨日に続いて北見での話で盛り上がりました。
話をしているうちに、壁に貼られていた岩見沢駅の時刻表に目が留まり、同じ函館本線の道央圏だけに札幌駅同様列車本数が多く、最終列車の到着が23時57分と日付が変わる寸前で驚きました。加えて室蘭本線・幌内線・万字線の時刻も載っていて、くぎ付けになりました。
伯父がその様子を見て僕に
「北見に行く列車とその時刻を教えて」
と言ったので、時刻表を上から順に見て、到着駅とその時刻の欄に
「網走○○:○○」
と書いてある列車の発車時刻を教えました。当時岩見沢から北見に向かう列車というと、札幌~網走間の特急「オホーツク」1往復と急行「大雪」が昼行2往復(うち1往復は網走から先釧路まで往復)夜行1往復、函館~網走間の特急「おおとり」1往復の計5往復でした。
伯父たちと話をしながら時刻表に見入っていると、ほかに名寄行き急行「なよろ」、また同じ札幌発着の「大雪」でも遠軽から先は北見や網走と反対に名寄本線を北上して下り興部着・上り名寄発(つまり下りは札幌→遠軽→紋別→興部、上りは名寄→興部→紋別→遠軽→札幌)という列車があるのを知り、前週日曜日に知った稚内や留萌方面への列車と共に、つくづく札幌や岩見沢といった道央圏は道内各地からの列車が集まっていると驚きました。
伯母が作ってくれた昼ごはんをごちそうになり、おいとましてバスで岩見沢駅に行き、行きのディーゼルカーですれ違った赤い電車の各駅停車で帰宅しました。夏休みに乗った電気機関車の引く客車急行に続いて、今度は国鉄電車の各駅停車に初めて乗り、札幌の地下鉄と併せてこの年は僕にとって鉄道電気車両「デビュー」の年になりました。
  1. 2017/03/17(金) 16:30:35|
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