trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

釧路での鉄道の思い出①

北見時代と違って住んでいた近くに駅や線路がなかったこともあり、釧路ではそれほど鉄道が身近に感じられませんでしたが、それでもバスで街へ行ったときは釧路駅の東側を跨線橋で渡り、DE10形ディーゼル機関車が引く貨物列車の姿を度々見ました。
釧路に引っ越した翌月の74年12月、何かの用事だったと思いますが、家族4人で北見に帰郷しました。まだ雪が降る前でしたが、釧路に来て最初の鉄道の旅で、明るいうちに北見に着いたので、恐らく釧路発9:00の網走経由札幌行き急行「大雪3号」に乗ったと思います。
祖父母宅に寝泊まりし、叔母たちとも触れ合い、母の実家にも行きましたが、釧路に移って間もないせいか、北見時代に札幌に行ったときと違ってそれほどワクワクせず、しかしつまらないということもなく平静でした。ただ祖父母宅の前で保育園時代の級友に会ったときはもう会えないと思っていただけにうれしかった。
3泊ぐらいして帰宅しましたが、北見に行ったという記憶だけで何の列車が見られたとかいう印象はありませんでした。
年が明けて小学校入学も近付いた75年の2月か3月、今度は母と妹とで帯広の親戚宅に行きました。帯広は僕と妹は初めてでしたが、親戚宅はマンションの2階で、市内の木々等が窓から見えて、ここも自然豊かな場所と感じました。
釧路から帯広に行くには特急「おおぞら」もありましたが、近距離なので急行「狩勝」で行きました。帯広には北見の上の従兄も一人で来ていて、みんなでワイワイしながらの2晩を過ごしました。
帰りは先に帯広駅で北見の従兄を見送りましたが、従兄はこのとき急行「池北」という、ワインで有名な池田から国鉄(→JR)池北線(後に北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線に転換後廃止)を経て北見に行く列車で帰りました。それから僕たちも急行「狩勝」で釧路に戻りました。
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  1. 2015/04/26(日) 22:14:11|
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釧路暮らしのスタート

いよいよ本題。

旅館での一晩を過ごして、翌11月4日、僕たちは新居に向かいました。旅館に泊まったのはこれが初めてでしたが、寝室はちゃんと独立していたものの、食事場所が旅館の主の家族達と一緒で、違和感があり、早く旅館を出たいと思いました。
市内愛国の新居に着くと、荷物が先に着いていて、両親が中心となってみんなで整理しました。整理が済むと祖母と近くに散歩に出ましたが、道路端の排水溝でカエルが泳いでいて、北見では見なかっただけに新鮮でした。
愛国という場所は駅からバスや車でないと行けないところで、北見時代と違い鉄道の線路は近くになく、鉄道はそうそう見には行けず専ら鉄道のおもちゃで遊ぶのがほとんどでした。もっとも後に近くにかつて鉄道が通っていてその線路跡があることを知りますが。
近くの幼稚園や保育園に転入して通うことも考えましたが、卒園まで後5ヶ月しかないので通わず、自宅でテレビ見たりして実に気楽に過ごしました。
ほとんど自宅で過ごしていて外のことは母とバスで街に行くとき以外は知る由もありませんでしたが、そういう中、転勤早々11月23・24日の土日に父の会社の慰安旅行があり、家族して社内の他の従業員とその家族たちとでバスで阿寒湖まで行きました。
大広間での夕食でアイスクリームを食べたりお菓子の詰め合わせをいただいたり、初めて阿寒湖を見てその前で社員家族全員で写真を撮ったりと、保育園の親子旅行とはまた違った楽しさがありました。
  1. 2015/04/25(土) 22:12:02|
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釧路での生活の前に…

北見時代の落ち穂拾いで、北見時代で最も楽しかった73年、女満別に泳ぎに行く前の7月の日曜日、僕たち一家と母方の伯母一家と伯母の店の店員さん達とで車でサロマ湖に行き、浜辺で豚汁パーティーをしましたが、サロマ湖に向かう途中美幌の製糖工場の横を通りました。美幌駅と製糖工場を結ぶ専用線の踏切を渡りましたが、警報機が無い手動式遮断機だけの第二種踏切で、当時は既に全廃されて無かったはずが残っていたまれなケースでした。遮断棒が普通なら黄色と黒の二色なのが赤と白だったのも印象的でした。そして踏切を過ぎて工場の横を通ったとき、今度は工場内の専用線のガーター橋と車止めが見え、僕の心をくすぐりました。
専用線といえば、北見駅でも駅から初めに少しばかり国鉄→JR池北線(後の北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線を経て廃止)に沿いそれから南東に延びて僕の自宅近くのスーパー裏の小学校近くの北見バスの車庫付近まで通じていた専用線がありましたが、こちらは北見の農協のタマネギ貯蔵庫と石油タンクにつながっていて、バスの車庫付近の車止めが終点でしたが、面白かったのはその専用線と北見機関区前からまっすぐ南西に延びる道路との踏切が、遮断機も警報機も無い代わりに道路用の三色信号機があって、普段は青のままで列車通過時に黄色から赤に変わるもののようでした。その専用線は北見在住時には石油用のタンク車をかすかに見た記憶がありますが、北見から出て後年北見を訪れた時にはタマネギ貯蔵庫前に白い冷蔵車が3両ほど止まっていました。冷蔵車は魚や肉以外にタマネギ輸送の用途もあったようです。

同じ年のクリスマスには今度はプラレールでなくヨネザワ(現・セガトイズ)の汽車のおもちゃを買ってもらいましたが、前年に買ってもらった同じヨネザワの蒸気機関車けん引の貨物列車セットと同様のブリキの車体で、電気機関車と機関車に固定連結された電池ボックスを兼ねたタンク車・平ボディーの荷台に乗用車を2台載せた車運車そして活魚車の4両編成でした。前年に買ってもらったのと違うのは、連結器の形が変わっていたことでした。
プラレールの方も、前年のクリスマスと夏の札幌のときに続いて秋には貨物車両セットを買ってもらい、こちらは有蓋車・タンク車・丸太積みの無蓋車そして車掌車の4両で、さらに楽しみが増えました。
その貨物車両セットは翌74年に父が札幌に出張したときにお土産として同じのを買って来てくれ、所有車両が更に増えてにぎやかになりました。出張帰りの父を夜の北見駅で母と妹とで待っていたとき、ホームに止まっていた貨物列車のタンク車が駅構内の大きな照射灯に照らされて光っていました。そして22時23分、札幌からの急行「大雪4号」が改札すぐ前の1番線に着き、大勢の降車客に混じって父が現れ、僕にその貨物車両セットを渡してくれました。

片や、北見時代最後の74年は片思いに傷付くほかに鉄道でも「屈辱」を味わいました。主に北海道の鉄道模型ファンで知る人も少なくない北見の老舗模型店「鳩屋模型」に、Nゲージを発売する前のトミーのアメリカ型のHOゲージの鉄道模型が売られていまして、「ドッグノーズ」と呼ばれる犬の頭の形のあのディーゼル機関車に大型の有蓋車・タンク車・無蓋車そして「カブース」と呼ばれるアメリカ特有の凸型の車掌車の5両編成で一目見て欲しくなりました。
しかし両親はプラレールのときと違ってあくまでも「ダメ」の一点張りで、泣きはしなかったもののいくら駄々をこねても買ってもらえず、隣の祖父母宅で買ってもらった綿飴を食べてやっと落ち着きました。その後、鳩屋模型の並びの空き店舗に伯母のクリーニング店が洗濯物受け渡し所を出して、母が一時そこで働いていて、保育園が終わると店に遊びに行き、そのついでに鳩屋模型のショーウィンドーの先の鉄道模型を見に行って、買ってもらえないせめてもの慰めにしました。
また、同年9月の北見神社のお祭りの露店で、当時バンダイから出ていた「ミニミニレール」という鉄道のおもちゃが売られていまして、オレンジの国電でこれも鉄道模型さながらにリアルで欲しくなりましたがやはり買ってもらえず、別のぜんまいで動く汽車のおもちゃにしろと母に言われましたが嫌で、そのままお祭りが終わり後味が悪くなりました。

しかし北見を離れてからその後、思わぬときに先の「ミニミニレール」を買ってもらえ、更に大きくなって今度は思わぬ場所で先のとほとんど同じアメリカ型の鉄道模型セットを入手することになります。
  1. 2015/04/19(日) 23:03:50|
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初めての別れ

保育園最後の夏休みが終わり、9月末のこれも保育園最後の運動会も終わり、残るはクリスマスのお遊戯会そして卒園式を残すのみとなりましたが、10月の半ばに入り、母から父の転勤で釧路に引っ越すことを知らされました。
初めは寂しさも実感も湧きませんでしたが、北見を離れる日が近付くに連れ、胸が締め付けられる思いになりました。保育3年目に入ったばかりのときに感じた胸の締め付けられるような寂しさは、今思えばこの初めての転勤を予感したのでしょう。
保育園のクラスでも母が先生に知らせたので発表し、クラスのみんなが「寂しくなる」と別れを惜しんで、一人ずつが汽車の絵を描いて切り抜いたのを箱に詰めて贈ってくれました。母方の上の従兄も木の板に蒸気機関車の絵を彫って色を塗ってくれたのを贈ってくれました。
北見を離れる前々日、日通の引っ越しのトラックが入って自宅から荷物を運ぶのを隣の祖父母宅の窓から見て、住み慣れた北見を離れる寂しさが一層強くなりました。

そして74年11月3日、北見朝7時25分発の釧路行き急行「しれとこ2号」で、父の会社関係者や親戚達に見送られて、僕たち一家4人は北見を離れました。
父方の祖母が釧路まで手伝いに付き添ってくれましたが、北見を離れた寂しさに加えて釧路がどんなところなんだろうかという、不安とも期待ともいえない気持ちが交錯しました。
列車は網走までは何度か見た車窓でしたが、網走に着き、初めて窓を開けて駅弁と名物のしじみ汁を買いました。僕には初めての駅弁でしたが、僕は焼き鮭や卵焼き等が入った典型的な幕の内弁当の「オホーツク弁当」で妹や両親達はこれも網走名物の「かにめし」でした。「かにめし」に付いていたスプーンがチューリップの形だったのが印象的でした。
以前は下車してばかりの網走を通過して、先は全く初めての線路を走りました。後にその線路は釧網本線といって、その名の通り釧路と網走を結ぶ路線なのを知りましたが、斜里まではオホーツク海に沿って走りました。11月で波が荒く白いしぶきを上げていたのを見て北見から釧路に移る寂しさが込み上がりましたが、なぜかここで清酒「大関」の
「酒は~大関~心意気~♪」
の節が浮かんで、どうにか寂しさが紛れました。
斜里に着くと、向かいの線路にDE10けん引の長い貨物列車が止まっていて、車掌車やら冷蔵車やら何やらと続いて最後に有蓋車・細い材木積みの無蓋車・有蓋車から成る編成でしたが、後に釧網本線の機関車はDE10の独壇場なのを知りました。
斜里を出、網走管内最後の駅・緑を過ぎると、ようやく僕たちがこれから住む釧路管内に入りました。釧路管内は前年夏に母方の親戚と一緒に川湯に行ったのと2歳のときにこれも母方の親戚と屈斜路湖に行ったくらいでしたが、まさか住むことになるとは思いませんでした。
川湯(現・川湯温泉)、弟子屈(現・摩周)といった温泉や屈斜路湖・摩周湖観光の玄関口を過ぎると、車窓は枯れ葉や紅葉ばかりの、秋の色に染まりました。途中の茅沼かどこかの駅では、DE10けん引の茶色い客車列車の後ろに石炭積みの無蓋車がずらっと続いて最後尾に有蓋車が2両ぶら下がっていたのを見ましたが、これがまさに客車と貨車を一緒に連結した「混合列車」で、北見では見たことなかっただけに衝撃でした。後に当時の釧網本線は混合列車が名物で鉄道ファン注目の的だったのを知りました。
当時は全くわかりませんでしたが、列車は今では国立公園になった釧路湿原の中を走り、DE10が貨車の入れ換えをしている東釧路駅を通過して、11時25分、ようやく釧路に着きました。
父の会社が手配してくれた市内の旅館にタクシーで向かい、その日はその旅館に泊まりました。部屋は良くないことに明かりがつかなくて困りましたが、寝るまでテレビをつけてそれを明かりにしました。
  1. 2015/04/10(金) 00:06:37|
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北見の鉄道の変化

2度目の札幌から戻り、GWも明けていつもの保育園生活に戻りましたが、保育1年目2年目と同じ先生だったのが3年目は前年に着任した若い先生に変わりました。
元々みんなの輪の中に入らず一人で鉄道の本を見るのが好きでしたが、それでも誰かと一緒に遊んだことも少なくなく、目立って孤立したわけでもありませんでした。
ただ一つ問題だったのは、2年目に入園して僕のクラスに入って来た女の子がいてものすごく好きになり、何かと彼女と一緒になりたがっては迷惑がられ、3年目のその年になると彼女が他の人と遊んでいると陰でカリカリしたりで保育園の連絡帳にそのことを先生に書かれて両親に知れ、叱られたりたしなめられました。偶然にもその子は母の義兄と同じ職場だった人の子で、伯母達の話題にもなり、両親にすればいい恥さらしでした。
恒例の保育園の夏休み前の親子旅行も、その年は網走の天都山に寄り、生意気にも彼女とツーショットを撮ってもらえたものの、帰宅してから彼女が買ってもらっていたとうきびのマスコットを僕も欲しかったと泣いて駄々をこね、両親に叱られました。
その一方的な片思いを戒めたかったのか、父はこのころ僕に
「鉄道趣味やめろ」
と度々言っていました。

それにも構わず僕の鉄道好きはやみませんでしたが、北見の鉄道の風景も入園時から追うと変化していました。
入園した72年はまだ蒸気機関車が主流で国鉄の北見機関区の扇形車庫は蒸気機関車が大半でディーゼルカーがぽつぽつ、その蒸気機関車も有名なD51やC58、9600とバリエーションに富みました。D51とC58は一目見てわかりましたが、9600は当時はどうも得体が知れず、最近になって
「ああ、あれ考えてみれば9600だったな、D51よりは小さい感じだけどC58よりは大きかった」
とようやく認識しました。
それが初めて札幌に行った翌73年になると北見駅構内は蒸気機関車よりもディーゼル機関車の方が多く見られるようになり、本線用は凸型のDD51が客車や貨車を引いていましたが、貨車の入れ換えにはDD14という、冬場の除雪用で片側に運転室がある箱型のが毎日のように働いていました。保育園から帰るとよく駅近くの踏切まで行って入れ換え作業を見まして
「僕も国鉄に入ってDD14に乗って入れ換え作業をするんだ!」
と夢を膨らませたものでした。

そして74年になると蒸気機関車がますます数を減らし、入れ換えも図鑑の絵ではかねてから見ていたけど実物ではまだ見ていない、凸型でも運転室が中央から少し片側に寄った、DE10というディーゼル機関車に変わりました。
父もしきりに「デーイーデーイー」と呼んでいましたが、僕も絵でしか見られなかったのが実際に見られただけに印象深く、当初はDD14の方が良かったと思いつつも、いつしかDE10の入れ換え光景が当たり前になっていきました。
先の片思いがうまくいかず帰宅してから泣いたその年の親子旅行で網走の天都山にバスで登った際には、窓から外を見下ろすと何と蒸気機関車(おそらくC58)3重連で最後の方がタンク車数両の長い貨物列車が通過して行くのが見えました。このころは蒸気機関車の末期が近付いていて、北見地区の管轄の鉄道局の計らいでファン向けに先の石北本線呼人~網走間の天都山付近ほか、「幽霊の出るトンネル」で有名だった同線生田原~金華間の常紋トンネルでも貨物列車がD51と9600との3重連で運転され、トンネルの北見側入口の信号場にはカメラを構えた鉄道ファンが大勢集まったそうです。

うまくいかない片思いに泣いた親子旅行のことも忘れて保育園時代最後の夏休みに入り、家族4人と母方の義兄一家5人の計9人で網走湖に泳ぎに行きました。
前年札幌に行く前に初めて行ったときは女満別駅そばの浜辺でしたが、今回は石北線呼人~網走間の線路沿いの場所でした。先の親子旅行でも寄った、売店のある駐車場に車を止めて保育園最後の夏休みを楽しむように泳ぎつつ、ディーゼルカー2両程の普通列車や特急「オホーツク」が通り過ぎるのをチラチラ見ました。
そして再び泳ぎに夢中になっていたころ、母が
「兄ちゃん汽車来たよ!」
と声を上げたので線路の方を見ると、DE10が引く長い貨物列車が網走方面に向かって気持ち速いスピードで走って来ました。機関車に続いて車掌車、タンク車が何両か、その他いろんな貨車が連なって再びタンク車、有蓋車、そしてコンクリート製の電柱を積んだ無蓋車を最後尾にトンネルの彼方へと消えていきました。保育園時代最後の夏休みを締めくくるかのような、見てて楽しい貨物列車でした。
  1. 2015/04/06(月) 22:21:16|
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2度目の列車での遠出②

2日目、父と伯父夫婦が買い物に出、僕は下の従兄と留守番をしました。
外に出れば前年と同じく電車や電気機関車が見れることも忘れて、家の中でステレオでラジオを聴いていると、まだデビューして数年の森昌子のデビュー曲「せんせい」が流れていました。
その後ラジオを消して、新聞のチラシの裏の白い部分にペンで落書きしたり気晴らしに外に出ましたが、何故か寂しさがこみあがり、ついに
「僕帰りたいよォー!」
と大声で泣いてしまいました。
従兄が困惑しているところに父と伯父夫婦が買い物から帰宅しまして、なだめられて泣き止み、当時新発売の「サッポロポテト バーベQあじ」を買って来てくれたのでかぶりつきました。前年発売の野菜味のサッポロポテトももちろんおいしいけど、バーベQあじは名前の通り肉の味がして病み付きになりました。
その夜、従兄がちゃぶ台の脚を一本なくしたとか何とかで伯父に叱られているのを横目に、昼間泣いたことも忘れて僕はミニカーで遊びました。

元々その予定だったのか、僕が「帰りたい」と泣いたのに父がしびれを切らしたのか、翌3日目に僕と父は帰りました。今回は帰りも急行で、札幌発11:00の網走経由釧路行き「大雪2号」でした。
時間が時間だけに乗ってから降りるまで明るい中を走りましたが、今回は前年とは違い電気車両には目が行かず、旭川から北見までの非電化の石北本線の光景が目に入りました。
途中駅の引き込み線に止まっていた除雪用の黒いラッセル車は父も「ラッセルだ」と口にしましたが、僕は旭川から二駅目の新旭川駅辺りに止まっていたディーゼル機関車・DD51の引く長い貨物列車が目に焼き付きました。
機関車に、箱型の有蓋車、屋根無しで荷物を積んで幌をかぶせた無蓋車、魚積みの白い冷蔵車、石油積みのタンク車等がズラリと続いて最後は車掌車で終わると思いきや、車掌車の次に機関車が連結されていてこちらが先頭とわかり、先頭の機関士が運転席で新聞を読んでいました。後に石北本線の貨物列車は途中上川~白滝間の北見峠と遠軽~留辺蘂間の常紋トンネルの二つの急坂を越えるために、先頭と最後尾に機関車を連結して前引き後押しで走っているのを知りました。保育園時代はいつも周囲に
「汽車の運転士になるんだ!」
とアピールしていましたが、その前引き後押しの貨物列車は、僕も運転したい憧れの一つでした。
進行方向の変わる遠軽駅ではディーゼル機関車が車掌車と砂を積んだ無蓋車の2両だけを引く光景が見られました。当時は遠軽駅も北見同様に機関区があって扇形の車庫に蒸気機関車やディーゼル機関車がたむろし、構内では貨車の入れ換えもあってにぎやかでした。
夕方5時前にようやく北見に着き、帰宅すると父が僕が寂しさから泣いたことを母に話し
「ママのおっぱい吸いたかったんだろうな」
とみんなして笑いました。

その後お土産か何かで神戸の地図が箱に描かれたチョコレート菓子を食べまして、
「神戸行ってみたいな」
というと、母が先の泣いたことを持ち出して
「あんた、神戸行ったら帰れなくなるよ」
と笑っていました。北見にいた僕には神戸が外国のように遠く感じられましたが、それから16年後の大学生のころに一人で神戸に行くことを誰が想像したでしょうか。
  1. 2015/04/01(水) 17:22:03|
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