trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

釧路での鉄道の思い出⑦

落ち穂拾いで、秋のバス遠足に行く前の10月最初の日曜日、前夜に車で来た母方の伯母一家と一緒に根室に車で行きまして、日本の有人地で最東端の納沙布岬まで行きました。行きは途中厚床辺りから根室本線と並行し、2両編成の朱色とクリーム色のツートンカラーのディーゼルカーが同時に走って来ました。帰りに根室駅前の土産物店に寄ったとき、駅構内に貨車が一両ポツンとたたずんでいました。釧路に戻り親戚達を見送ると
「もっと長くいてほしい」
という思いが込み上げてきました。
翌11月1日(土)夜から3日(祝)に今度は家族して車で北見に行きましたが、帰りの車内で酔って戻してしまい、父に
「ここから歩いて帰れ!」
と平手打ちを食らわされ、その後父や世間一般と鉄道趣味を巡っての不和もあって完全な車嫌いになりました。

クリスマスの日に二学期が終わり、小学校初の冬休みが始まりました。年が明けて76年の元旦になると年賀状が来まして、担任の先生からも届いていました。オレンジ色の版画刷りで
「休みに遊びにおいでね」
と書かれていて、うれしくなりました。
三が日が過ぎたころ、北見から母方の上の従兄が一人で、かばんと大きなラジカセを抱えて泊まりに来ました。家族してトランプやすごろく、外で雪遊びをして楽しみました。
ところが当初は従兄が数泊して帰宅するだけのはずが北見から電話があり、祖母が雪で滑って骨折して入院したというので、従兄の帰宅に同行して僕も母と妹と一緒に北見に行きました。17時15分発の北見行き急行「しれとこ3号」で釧路を出、暗い中を走る車内で祖母を案じました。向かいの席で従兄がイヤホンでラジカセを聴きながら寝ていました。冬休みもあって車内は満席でした。
21時25分北見に着いて母の実家に行ってその日はすぐ寝、翌日と翌々日に祖母のいる病院へお見舞いに行きました。脚は石膏でギプスをはめられ、トイレのときが大変ということでした。
お見舞いの後は外で雪遊び等をして楽しみ、3泊後に旭川から来た昼11時発の「大雪1号」で明るいうちに釧路に帰りました。
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  1. 2015/05/29(金) 23:29:22|
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釧路での鉄道の思い出⑥

バス遠足で市内の臨港鉄道や運炭鉄道が見られて、最初のころとかく不適応が目立った私の釧路での生活もようやくリズムがつかめてきました。
11月に入ると今度は学芸会がありまして、私たち1年生はクラスから各1人ずつ計5人でステージ上で一人ずつ抱負等を述べて最後に5人全員で「頑張ります」の類のことを言うあいさつみたいなのをすることになりましたが、それに何と私が選ばれ、放課後その口上を述べる練習に明け暮れました。
クラスで不適応を起こして担任から問題視されていたはずの私がなぜクラス代表に選ばれたのか、今思えば不思議でもありましたが、振り返れば声が大きかったからと思います。担任の先生も私のいいところも見てくれていたのかと気付かされました。
十分にセリフを覚えて、学芸会当日は軽やかな緊張の中でステージ上で声を出し、出番が済んでステージから降りてクラスの席に戻ると、釧路に来て以来の憂鬱さがすっかり消えていました。

小学校初の冬休みを控えてのクリスマス、親戚からのプレゼントだったと思いますが、当時は人の顔の模様だった東急の包装紙に包まれて赤い花形のリボンで結ばれた箱を母から渡されまして、何だろうと包装紙を開けて見ますと、何と当時バンダイから発売されていた鉄道玩具「ミニミニレール」でした。車両は新幹線でしたが、車体といいレールといい信号といいリアルに近く、それでいて小さくて場所を取らないだけにうれしくて、しばらくは毎日そのおもちゃで遊びました。前年、北見神社のお祭りの露店で売っていた国電のミニミニレールを買ってもらえなくて悔しいまま北見を離れましたが、忘れたころに思わぬ形で車両こそ違え同じ鉄道玩具が手に入るとは…。
  1. 2015/05/24(日) 20:21:52|
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釧路での鉄道の思い出⑤

小学校初の夏休みが終わって二学期が始まり、みんなと久々に顔を合わせ、休み中にどこそこへ行った話で盛り上がりました。学級通信に載せる作文に北見に行ったことを書きましたが、当時作文ができなかった僕は文章が短く、先生に
「もっと楽しかったことを書いてくれるとよかったね」
とコメントされました。当時の担任は作文にも厳しく、短かったり主述がはっきりしないと何かしら言われました。
給食も以前よりは食べられるようにはなったものの、それでも残して先生に目を付けられたり、残したものを持ち帰って父に平手打ちを食らわされたりしたこともありました。

そんな中、10月になり、秋の遠足がありました。春は徒歩で当時の雄別鉄道線の跡の盛土を歩いて現在の新くしろ川沿いの河畔公園へ行きましたが、秋はバスで市内を巡って鶴ヶ岱公園へ行きました。徒歩で近くまでと違い、バスでの遠足は普段そうそう足を延ばせないところへ行くだけに、北見の保育園時代の親子旅行同様に興奮しました。
小学校を出てひたすら道路を走り、まず大楽毛や新富士方面に行くと、根室本線の線路が見え、ディーゼル機関車が引く客車の普通列車が見られました。そして新富士駅辺りから港に入ると、鉄道の引き込み線とそこに止まる石油用のタンク車群が見えました。それから釧路駅前を通り東釧路駅付近から春採湖に行くと対岸に石炭輸送用の専用鉄道が見え、その専用鉄道に沿って市の南側の港湾地区の知人町や入舟町に行くと、その専用鉄道の引き込み線が見えて、市内にこんなにも鉄道スポットがあるのに驚きもし、喜びもしました。
鶴ヶ岱公園でバスを降りてみんなでお弁当を食べ、再びバスに乗って残りの場所を巡って帰りました。旧釧路川(現・釧路川)に架かる久寿里橋(くすりばし)を渡ると、左岸の倉庫群の間からオレンジ色のディーゼル機関車が箱型の貨車の入れ換えをしていたのが見えました。先の石炭輸送用の専用鉄道がその倉庫群まで延びていて、石炭以外にも一般の貨物を扱っていたようでした。市内観光を兼ねた釧路時代初のバス遠足は、市内の港の引き込み線と運炭鉄道が初めて見られて興奮の連続でした。
後日学級通信のバス遠足の作文に港の引き込み線や春採湖の石炭鉄道のことを強調して書き、自分でも読んでて楽しい遠足だったことが伝わってきました。
  1. 2015/05/18(月) 07:24:59|
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釧路での鉄道の思い出④

2度目の帯広から帰り、月が変わって8月になり、夏休みも終盤に近付く10日を過ぎたころ、今度は父の会社のお盆休みに合わせて、家族4人で北見に行きました。
前年暮れと同様に釧網本線に乗りましたが、今度は釧路発17時15分の北見行き急行「しれとこ3号」に乗りました。「しれとこ」は当時は釧路~北見間に1往復、釧路→網走間に上り1本、釧路~根室標津(現在は廃止)間に2往復していて、当時は釧網本線を代表する列車でした。
夕方出て夜に着くダイヤなので途中外は暗闇で何も見えませんでしたが、会話をしたりジュースを飲んだりしました。そして網走を過ぎたころに暑かったのもあって窓を開けると、街灯や月明かりで線路端の草むらや電柱等が見えました。電柱は街の通常の電信柱もさることながら、当時は北見~網走間の線路沿いに鉄道の通信用の電線が張られていて、それを支えるための電柱も見えましたが、今のように1本のケーブルにまとめるのでなく複数の細い電線がバラバラだったので、電柱で支える際に碍子(がいし)を桟木に取り付けてそれで支えていました。その鉄道の通信用の電柱はその姿形から「蝿叩き」と呼ばれ、今では地方のローカル私鉄にごくわずかに残るのみで、大概は鉄道模型で見るしかなくなりました。
終点北見に21時25分に着くと、まず母の実家に泊まりました。親戚たちと釧路であったこと、特に僕が小学校で給食を残して問題になったことが出、みんなで笑いました。
翌日、今度は父の実家に行きましたが、このとき実家や隣の以前僕が住んでた家の区域が区画整理をしていて、実家は坂道を少し下ったところの木造アパートに仮住まいしていました。木造アパートのそばの細道は僕が保育園のころ今は暗渠になった農業用水路沿いの公園に行くときよく通った道でした。またそのアパートの近くは郵便局や国鉄の木造の官舎や銭湯、サービスストア、父の母校の小中学校ほか、後年知りましたがタレント・沢田亜矢子さんの実家もありました。
仮住まいのアパートで狭かったので今回は父の実家には泊まらずその日も母の実家に泊まり、翌3日目は今度は網走の父方の祖母の年の離れた姉弟宅に行きました。網走の大伯母大叔父宅は北見時代に何度か行きましたが当時は僕はどういうわけかその親戚宅が嫌で、泣いたり早く帰りたくなったりしたものでしたが、今回はそんなことはありませんでした。
ちょうどお祭りがあったようで、市役所近くの商店街には夜店が並んでいて、綿飴を買ったり両親や大叔父は名物の茹で毛ガニを食べたりして、僕としては網走を初めて楽しめました。
一晩泊まり、翌4日目に旭川から来た網走発12時半ごろの急行「大雪1号」で釧路に帰りました。釧路に15時17分に着くダイヤで道中ずっと明るい中を走り、途中弟子屈に停車したとき、父がホームに降りてジュースの空き缶に水を入れてきてくれました。
  1. 2015/05/09(土) 22:03:05|
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釧路での鉄道の思い出③

小学校時代初の運動会が終わり、夏休みも近付く7月に入り、不適応が元であろう給食での好き嫌いはエスカレートし、ついには放課後残されて延々と先生に説教され、学級新聞にそのことを書かれ、一時は二度と学校に来るなと言われる始末でしたが、その週の金曜日の給食の時間に母が僕の食べ具合を見に教室まで来て、たまたまそのときメニューが僕の食べられるものだったので完食し、1学期はとりあえずその問題は治まりました。

小学校初の夏休み前の終業式後に雨だったので教室前の廊下で「おたのしみ会」でかけっこや末広町のレストラン「笛園」の細長い風船を膨らませる競争をして楽しみ、いよいよ夏休み本番に入りました。
7月末にまず母と妹との3人で釧路発9時20分の特急「おおぞら2号」で帯広の母方の伯母のところに行きました。釧路から帯広までの短距離で食堂車には入らなかったので73年に「おおとり」に乗ったときと違って特急に乗ったという実感はありませんでしたが、当時の「おおぞら」は10両編成で堂々たる日本の高度成長期の列車の風格をたたえていました。車内放送で一番最後が1号車と聞き、
「あれ、1号車が先頭でないの?」
と思いましたが、後年列車の号車順は線区や列車、上り下りや進行方向によって違うことを知りました。
特急でも短距離乗車だったのでおそらく今でいう「特定特急区間」で通常よりも安い料金だったと思いますが、それはともかく、小学校入学前以来4ヶ月振りの帯広は、前回の雪が残っていたときと違って今度はかんかん照りの中で、また違う楽しさがありました。
2日目には帯広柏葉高校に入学して間もない従姉と初めて帯広動物園に行き、キリンや象等の定番の動物を見るのに加え、遊園地で乗り物を目一杯楽しみました。遊園地の乗り物は旭川の旭山動物園や札幌の円山動物園ほか、北見にもパークランド(現在のファミリーランド)があって楽しみましたが、帯広動物園のは北見パークランド以来の楽しさを感じました。帰りに動物園横の森林公園を通りましたが、木にカブトムシがいて近くの子供が塗った砂糖水にたかっていたのに驚きました。
3日目は伯母と一緒に帯広市街に出て老舗の藤丸百貨店等に入りました。札幌の五番館や三越等は別格として、これまで北見の金市舘やまるいいとう、釧路の金市舘や丸三鶴屋、くしろデパートと百貨店巡りはどこでも楽しいものでしたが、帯広の藤丸は北見や釧路の百貨店のような地域密着さと札幌のそれのような豊富な品揃えを兼ねているかのようで、ずっととどまっていたいくらいでした。おもちゃ売り場には当然鉄道のおもちゃもありましたが、レールなしの車両だけのセットが置いてあり、赤い電気機関車と黄色いタンク車、とび色の箱型貨車そして黒い車掌車の4両で欲しいと思いましたが、反面どこか物足りない気がして欲しいと言い出せませんでした。
市街にはバスで行きましたが、帯広駅横を通ったとき、構内で貨車の入れ換えをしていたのに釘付けになりました。

4日目は最終日で帯広駅から札幌から来た急行「狩勝1号」で帰りました。「狩勝」は3月にも乗りましたが、当時は列車名を知らず、このときに列車名を知りました。
  1. 2015/05/05(火) 21:33:35|
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釧路での鉄道の思い出②

北見から父の転勤で移住し、保育園や幼稚園にも通わず自宅でテレビや鉄道の本を見たりプラレールで遊んで気楽に過ごした5ヶ月があっという間に過ぎて、75年4月、釧路市の愛国小学校で義務教育がスタートしました。
最初は午前中だけの3時間授業で終了後すぐ帰宅だったので実に気楽で、後はテレビばかり見ていました。ただ、徐々に学校に慣れ、給食が始まり、食べられないものがあったり遊びの輪に入れなかったり、体育のときに運動ができない問題が出て来て、北見の保育園時代と違って何となくクラスに溶け込めず、泣いて抵抗したり先生に目を付けられて両親に叱られたり心配を掛けたりしました。今でいう「不適応」でしたが、しかしなぜか不登校などせず厚かましく登校し続けました。当時は無意識でしたが、輪に入ってみんな、特に女の子と仲良くなりたいのが思うようにいかずいらいらしたのだと思います。
それでも6月の日曜日の運動会に北見の母方の伯母や従兄たちが観戦に来てくれ、終了後帰宅して親戚たちが帰るのに同行して僕たち一家も北見に車で行きました。車と言ってもうちらは自家用車はまだなく父の会社の同僚の車でしたが、前年11月の会社の慰安会以来半年振りに阿寒湖までの国道240号線(まりも国道)を通り、沿道の景色や立ち並ぶホテルにワクワクしました。
そして初めて阿寒湖以北を通り、峠を越えて平地と道路右手に小さな商店のある集落が現れたと思ったら、何と同時に国鉄の駅とディーゼルカーが目に飛び込んできたではありませんか!それまで北見駅周辺や釧路駅周辺、釧路から網走・北見・旭川を経て札幌までの線路しか知らなかっただけに、阿寒湖から北の向こうにも鉄道があったのは驚きもし、喜びもしました。
この駅は、北見に近い美幌から出ていた相生線という路線の北見相生という駅で、相生線の終点で行き止まりになっていました。貨物も扱っていた当時は駅裏に丸太が山積みになっていて、貨車で運んでいたようでした。
意外な場所で見られた鉄道にワクワク感は一層高まり、北見相生駅から先はしばらく道路に並行して線路が見られ、車窓から釘付けになりました。もっとも後で振り返ると、相生線の線路を見たのはこれが初めてではなく、73年の夏休み前の北見の保育園の親子旅行で屈斜路湖の砂湯に行ったとき、美幌市街から美幌峠に向かう際に跨線橋で越えたときに駅やディーゼルカーと共に見えた線路がそうでした。おそらく美幌から一つ次の上美幌駅だったと思いますが、北見時代は美幌からそういう路線が分かれているとは知りませんでした。
津別駅に差し掛かる手前で国道と別れて道道に入り、山林を抜けて、ようやく北見の母の実家に着きました。運動会が終わって帰宅してすぐ釧路を出たので、着いたときは夕日が落ちるころでしたが、北見の親戚のところは楽しく、いつまでもとどまっていたいくらいでした。

翌日は月曜日で僕は運動会の振り替えで休み、父もそれに合わせて休んだようで、伯母夫婦が仕事に、従兄が学校と幼稚園に出て祖母が残ったところで僕たちも父の会社の車で北見を出ました。
父もそうそう北見に行けないだけに直帰するのは惜しかったようで、この辺の記憶は薄いのですが、女満別近くに一旦ドライブに行った後、240号線を起点の美幌から南下して釧路に帰りました。美幌から津別駅付近まで通ったとき、車窓左手の向こうに相生線が通っていてDE10の引く貨物列車の姿がわずかに見えました。それから津別駅を過ぎて行きに通った北見からの道道との合流点から先は相生線があるのも忘れて車内でみんなと会話し、阿寒湖を過ぎて釧路市内に入り国道38号線に合流したところで右手に線路が見え、更に初めて大楽毛駅の木造駅舎と近くの本州製紙に出入りする貨車群が見えました。ちょうど釧路に向かうコンテナ列車がDD51の重連で走っていて、ちょうど父が付けたカーラジオから流れる山口百恵の曲と実にスピード感がマッチしていました。
コンテナ列車の姿がだんだん小さくなって見えなくなったところで僕たちの車も釧路川(現・新くしろ川)を渡ってようやく愛国の自宅に着きました。学校への不適応で先生から目を付けられて家庭でもストレスを感じる中で、今まで見たことなかった新しい線路が見られ、僕の「鉄ちゃん魂」が釧路でも目を覚まそうとしていました。
  1. 2015/05/02(土) 23:49:43|
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