trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

番外編 38年振りの釧路⑤

雨でしたので、もう少し居たかったのを断念して13時34分発の「おおぞら」で釧路を後にし、15時を回ったところでこちらも実に40年振りに帯広の土を、今度は自分の足で踏みました。
当時地上駅で釧路駅や先代の札幌駅と同じく角型ビルの民衆駅だった帯広駅は、今では話で知った通りの高架駅で、かつて線路に阻まれたり踏切を通らねば往来できなかった駅の南北それぞれの通りは見事なまでにつながっていて、車の往来がスムーズになっていました。
帯広はかつて母方の親戚が住んでいまして、釧路時代の75年3月と7月の2度行きました。7月のときにはおびひろ動物園に行きまして、帰りに森林豊かな公園の中を通り、木にカブトムシがいたのに釘付けになりましたが、僕が釧路を離れる2ヶ月前に親戚が一足先に札幌に転勤したので、以後帯広は縁もゆかりもなくトンとご無沙汰でした。
40年振りに帯広駅の改札を抜けて駅前に出ると、空は曇りながら雨は降っていなくて、車窓からも目立つ「よつ葉」の看板のビルが目に入りました。よつ葉乳業は今は札幌が本社ですが、創業の地は帯広の隣の音更町で、今もその音更に主管工場があり、北海道では雪印牛乳と双璧を成すよつ葉牛乳をまさに観光客にアピールしているようです。
まずメインの商業施設が並ぶ北口に出て、商店街を歩き、今や帯広のみならず道東でも唯一の百貨店「藤丸百貨店」に、これも実に40年振りに入りました。藤丸さんは帯広の老舗百貨店ですが、今では百貨店が姿を消した釧路や北見へも買い物客のための無料送迎バスを走らせて、今や帯広周辺のみならず釧路や北見も商圏になっている程で、もっと昔みたいに地方に地元資本の強力な商圏を持つお店が再来しないものかと思いました。
地上階のそれぞれの売り場を見た後に地下の食料品売り場を見て回ると、何と今は僕の住む神奈川県藤沢市の自宅そばに本社があるお肉屋さん「ニュークイック」があるではありませんか!藤沢や茅ヶ崎ほか茨城県土浦市等首都圏に展開しているのは知っていましたが、まさか北海道にまで進出しているとは。
お店でお惣菜のメンチカツを買いながら店員さんにニュークイックの本社そばに住んでいることを話すと、店員さんも驚いていました。
南口も南口で今や全国的に少数となった長崎屋ほか市民図書館等の公共施設が集まり、こちらはむしろ文化地区を形成していました。おびひろ動物園が駅から真南の郊外にあるのを初めて知りましたが、南口の郊外は動物園ほか自衛隊基地や帯広空港、そしてかつては製糖工場だった場所に建つショッピングモールがあるわけで、北海道もとかく首都圏と同じような街並みにしたがり大手スーパー等を誘致しては衰退を招く市町村が多い中、帯広は大手スーパー等を誘致しつつも元々あるものを最大限生かして「古くて新しい」町を形成しているように思えました。
強いて言えば父の釧路時代の同僚がその後帯広に異動し定年後もそのまま住んでいて、かつ僕の札幌時代の同期が十勝総合振興局に勤めているものの、自分にとっては知り合いはいないようなものなので、約2時間で切り上げて17時50分ごろに再び「おおぞら」の人となって帯広を離れ、西へ西へと向かいました。
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  1. 2015/07/24(金) 12:47:22|
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番外編 38年振りの釧路④

釧路駅前のホテルで一夜を明かして翌朝、当時住んでいた愛国という町を再訪するべく、くしろバスの愛国方面行きのバスで「愛国」のバス停で降り、38年振りに自分の足で愛国の土を踏みました。
まだ朝8時で時間があったので、自分がかつて住んでいたマンション2軒の周辺と通っていた愛国小学校近くを歩き、セイコーマートやセブンイレブン、ローソンで缶コーヒーやパン等を買って朝食としました。
かつて住んでいた近くは駐車場や空地に別の家やマンションが建ち、一方でかつてあった近所のマンションが壊されていたり、スーパーもフクハラがかつてのバスの車庫だった場所に移転したり、生協だった建物に先のローソンが入ったり、スーパーダイワが跡形もない代わりに近くにセイコーマートがあったり、何より驚いたのはかつて釧路から阿寒まで通じていた石炭輸送鉄道「雄別鉄道」の線路跡の盛り土がすっかり広いバス通りに整備されていたのに度肝を抜かれました。それでなくても愛国小学校近くにあった父の古巣の雪印の営業所があの食中毒事件や肉の産地偽装で解体されて跡地には不二家のお店が建ち、もうあのころの愛国周辺ではありませんでした。
もう少し回りたいのを後回しにして10時、今回のメインである、愛国の北側に隣接する芦野に住む当時の担任の先生のお宅にお邪魔しました。
年賀状は釧路時代からずっと交換していましたが、お会いするのはこれまた38年振りで、先生はもう80歳を過ぎ、白髪が増えて眼鏡の世話になっていました。
電話で声は聞いていましたがお会いするのは初めての奥様と一緒に3人で当時の思い出話に花が咲きました。当時の同級生の話に加え、定年退職までサッカーやアイスホッケーをしていたこと、絵はがきの絵を描くのが得意で今もその絵の講師を市内の公民館で月数回していること、自分の住んでいるエリア外の老人クラブで麻雀を楽しんだりかつての教員関係者とゴルフに興じたり、もうびっくりするほど趣味多彩さに交流の広さでした。
また当時の同級生の女子で左利きだったのを直させた子が後に帯広の白樺学園でスピードスケートをしたり、先生自身が工業高校を経て炭鉱勤めの傍ら教育大に通ったり筋を通すために上の人から煙たがられて教頭止まりで定年を迎えたので僕には少々上に取り入ってほしい等と、自分の人生論を、それこそ釧路時代には先生の家に遊びに行きもしなかった僕に惜しみ無く話してくれました。
ちょうどお昼だったので奥様がご飯と具だくさんの味噌汁、冷蔵庫の有り合わせの野菜炒めや蕗の煮物、そしてウドの酢味噌あえを出してくれました。小学校時代ならおそらく食べなくて先生に目を付けられたであろう献立でしたが、手作りのおいしさに食が進み、特にウドの酢味噌あえはまるで缶詰のパイナップルを食べているようで驚きました。ウドは普段そうそう食べないだけになおさら。
完食すると先生が
「ひゃー!好き嫌いないね」
と、当時給食を残してばかりの僕を問題視していたことも全く思い出すこともなく驚き褒めていたので、こちらも驚きました。
昼食をいただいたところで3時間がたち13時になったところで僕もおいとますることにし、後ろ髪を引かれる思いを振り払って先生のお宅を出ました。外は雨が降っていて、本当なら最終の特急「おおぞら」の時刻まで愛国周辺を歩きたいところでしたが、傘を差しながらというのも大変でしたし、何より荷物が濡れるのですぐにかつて住んでいた近くのバス停からバスで釧路駅に向かい、13時34分発の「おおぞら」で釧路を後にしました。まだまだいたかった釧路でしたが、雨だったのと他にも寄りたいところがあってのやむなきでした。
  1. 2015/07/22(水) 23:55:00|
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番外編 38年振りの釧路③

和商市場で勝手丼を堪能し、釧路駅前から幣舞橋まで歩いて往復して、13時発の根室行き普通列車で根室に向かいました。根室は小学校1年の10月に父の会社の車で北見の母方の伯母一家と一緒に納沙布岬や根室駅前に行って以来でしたが、自分の足で列車で向かうのは初めてでした。
釧路から次の東釧路までは釧路時代に釧網本線で北見に行くのに何度も通りましたが、そこから真東に向かう線路は全く初めてでした。線路に並行する国道44号線で先の根室ほか小学校2年の5月下旬の父の会社の花見で厚岸に行って以来3度目の厚岸・根室方面の旅は、何があるんだろうとワクワクして車窓から目が離せませんでした。
厚岸に着くと、その小学校2年のときの花見が蘇りました。貸し切りのマイクロバスで厚岸駅前を過ぎて厚岸大橋を渡って対岸の桜の名所の公園に行き、会社の同僚の子供たちとジンギスカンを食べたりいろいろ遊んだりし、最後は上司の人が泥酔して母たちが肩を貸して上司をバスに乗せたのが思い出でした。
厚岸町から釧路管内最東端の浜中町に入り、茶内という駅に着くと、駅名標の右横に「ルパン三世」の銭形警部の等身大ボードが立っていました。浜中町は作者のモンキー・パンチさんの出身地で、茶内駅内や次の浜中駅内にはルパン三世や峰不二子、次元大介や石川五右ヱ門のボードも飾られ、改札上には宣伝の看板も掲げられていたほか、釧路~根室間の列車の車両の中にはルパン三世のラッピングがされているのもあり、浜中町そしてJR北海道釧路支社挙げて作者と本作品をアピールしていました。
当初の予定では、茶内駅で降りて駅舎内にある、72年に廃止された浜中町営軌道という、長野県の木曽森林鉄道等と同じようなサイズの小さな鉄道の資料館をじっくり見ることになっていましたが、資料館は鍵がかかっていて入れず、すぐ列車に戻りました。
別保から厚床にかけては道路沿いや森林の中を走りましたが、森林ではエゾシカが何頭か見られました。5年前に北見に行った帰りに特急「オホーツク」で札幌に向かったさい、遠軽から上川にかけてエゾシカが線路に侵入して列車が止まり札幌着が遅れたのを思い出しましたが、そのときはシカの姿が見えなかったのに対し、今回はシカの姿がはっきりと見えて、しかし列車は遅れもせず安心しました。
釧路管内を過ぎて厚床からは40年振りの根室管内でした。厚床は89年まで中標津町に向かう標津線が分かれていた駅で、当時のホームや線路の跡がまだ残っていました。
厚床からはほぼ海沿いに草原の小高い丘を走りました。戦争中無線局があった落石駅や花咲ガニの水揚げで知られる花咲駅を通過すると、終点の一つ前の東根室駅に着きました。この東根室駅こそが、有人無人含むすべての日本の鉄道駅での最東端で、駅前にはその日本最東端の駅を見に観光バスが止まっていて、ホームにはバスから降りてきた観光客もいました。
釧路から約3時間の旅を終えて16時、ようやく初めて根室駅で降りました。手前の東根室は無人駅ですが、根室は駅員が配置されていて、駅員配置駅としては最東端です。
まず駅前から根室港に向かう道を歩きました。国道44号線に突き当たるT字路には北方領土への玄関口らしく
「返せ!北方領土」
の看板が立っていました。
そこから右折して市役所や根室振興局庁舎や小学校の前を歩き、それから左折して坂道を下り、イオンの横を通ると駅前とは別の商店街がありました。根室の漁港に近く、漁師や船員さん相手の飲み屋さんが目立ちました。
根室港近くに差し掛かり、そこから根室港を俯瞰して駅に戻るように歩き、途中北海道のコンビニチェーン店のセイコーマートで酎ハイとおつまみを買い、静かな住宅街を通って根室駅前通りのスーパーでも酒やおつまみを買い、すぐには駅に入らず更に駅周辺を歩いて
「日本最東端の線路の終点」
と書かれた、JR根室本線の線路の終端を示す看板の写真を撮って、それから駅に戻り、19時発の普通列車で釧路に戻りました。平日だったせいか、駅前の商店はスーパーや大衆食堂以外は閉まっていて閑散としていました。よくよく思えば初めて根室に行ったのは日曜日で、そのときはカニや魚や昆布の海産物店が軒を並べて店を開けていて、僕たちと同様に車で来た観光客が店内を見て回っていました。
22時過ぎに釧路駅に着き、駅前のホテルに荷物を置いて、かねてから新聞で情報を得ていた名物「カツスパ」を食べに幣舞橋近くの旧くしろデパート裏手の「レストラン 泉屋」に行きましたが、さすがに夜も遅くて閉店していたので翌日行くことにし、飲み屋街を通ってホテルに戻りました。途中栄町のオリエンタルプラザ裏手のセイコーマートでフランク片手に酎ハイを買って飲み、北見にもある懐かしい北交ハイヤーや釧路のみにある黄色い車体の上にに青い鳩を模したあんどんのこばとハイヤーが並んでいて、釧路時代が更に蘇りました。
  1. 2015/07/13(月) 23:27:49|
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番外編 38年振りの釧路②

38年振りに釧路駅の改札を抜けて駅前に立つと、先代の札幌駅や帯広駅、旭川駅と同じ横長角型ビルの「民衆駅」の釧路駅舎が当時と変わらぬ偉容をたたえていました。札幌も帯広も旭川も今では高架駅になりかつての「民衆駅」の面影は今いずこですが、釧路だけは地下のステーションデパートが閉店し構内のキオスクがセブンイレブンになり駅左端の荷物扱所も観光案内所か何かに変わったとはいえ
「これぞ民衆駅なり!」
と市民や観光客にアピールしているかのようでした。

昼時なので朝食もそこそこに取っていた私は本格的な腹ごしらえにと、かねてから情報を得ていた駅前の名所の一つ「和商市場」に真っ先に向かいました。
和商市場は釧路時代に家族とよく行き、夕食の材料の魚等をよく買いましたし、首都圏に移った84年に家族で車で訪れたときも寄りましたが、今回自分の足で初めて訪れた目的は「勝手丼」堪能でした。
私の釧路時代にはありませんでしたが、東京の大学生活を謳歌して他の旅行先にかまけ北海道には見向きもしなかった90年ごろ、当時東京と釧路を結ぶフェリーで主に夏にバイクでのツーリングで釧路湿原や知床を訪れる若いライダーがいました。しかしその多くはバブル時代にあって貧乏だったようで、和商市場に入っても魚等の品物を見るくらいで手を出そうにも出せないのを見て、市場の魚屋の親方衆がその懐具合を察し、彼らに市場内の総菜屋さんで丼飯だけを買って来させ、魚の刺身を一切れ単位で安く丼飯の上に乗せて最後に醤油をかけてライダーたちに提供したのが「勝手丼」の始まりだそうです。
私もそれにのっとり、まず総菜屋さんで丼飯を買い、各魚屋さんを回ってサーモンやトロ、鯖や鰯等の好物の脂の乗った魚の切り身を買って乗せてもらい、最後に醤油をかけわさびを添えてもらって、市場内のイートイン(といっても今風のショッピングセンターにあるような整ったものでなく茶色の折り畳みテーブルにパイプ椅子での仮設同然)でワクワクしながら噂通りの味を堪能しました。本当なら鯨も乗せたかったけど時期が時期だけに置いてありませんでしたが、それでもトロやサーモンや鯖に鰯の脂の旨味が醤油の風味と塩気とよく合い、それがご飯と絡み合って、月に1、2回行く回転寿司では味わえない、まさに釧路和商市場ならではの味でした。同じ勝手丼のサービスを仮に上野のアメ横や築地市場等で提供すると、どんな味わいになるでしょうか?

まだまだ勝手丼を味わいたいのをグッとこらえて和商市場を出、駅前から南に向かって続く北大通をこれも38年振りに歩きました。かつては駅前の金市舘デパート(現在のラルズの前身)や北大通中間の丸三鶴屋(東京の伊勢丹や三越と同系列)、そして後述する幣舞橋に近い地元資本の全国でも珍しい組合立のくしろデパート等が建ち並び、主に日曜日に母と一緒にデパートをはしごした思い出に事欠きませんが、今ではかねてから聞いていたように一部の不動産屋や携帯ショップや個人店、学習塾のほかはすっかりシャッター通りと化して寂しくなりました。北大通で当時からある店で今も健在なのは北海道銀行と北陸銀行、そして仏壇・仏具店の善光堂だけでした。

北大通をひたすら南に向かって歩き、明治時代から釧路の歴史を見守ってきた、幣舞橋を歩きました。橋は僕が釧路に住み始めたころは4代目で、ちょうど小学校1年秋のバス遠足で渡ったときは仮設の橋で取り壊しと架け替えが始まり、小学校2年の11月ごろに今の5代目になりました。
片側2体両側合わせて4体の女性の裸体のブロンズ像が立っていまして、4体それぞれが春夏秋冬の季節を表しています。橋の下には歩道と屈斜路湖を起点に釧路湿原を経て太平洋に注ぐ釧路川が流れています。
親同伴でも集団遠足でもなく自分の足で幣舞橋を堪能し、再び釧路駅に向かって歩きました。かつてのくしろデパート裏手から栄町を経て釧路駅に続く裏通りは飲み屋が軒を連ねる繁華街ですが、表通りの静けさとは裏腹に当時と変わらぬにぎわいが続いているのを証明するかのように、新しく開店した今風の居酒屋やバーが並んでいました。
  1. 2015/07/09(木) 22:19:10|
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番外編 38年振りの釧路①

本編は釧路時代の中期ですが、先回りして、私は小学校3年の2学期後半に釧路を離れ、その後家族と車で一度訪れたことがあるものの、自分の足で釧路を訪れたことはただの一度もありませんでした。
一度5年前に釧路を訪れて当時の先生にお会いする予定でしたが、先生が当時数えの喜寿祝いで忙しくて会えないということで断念し、時を置いて今回ようやく釧路を訪れる運びとなりました。

6月23日18時20分発の東北新幹線「はやぶさ31号」で東京を出て一路新青森へ、そこから特急「つがる」で青森に移動して22時08分発の夜行急行「はまなす」で北海道に上陸しました。
当初は苫小牧か千歳で降りて2時間ほど時間をつぶして南千歳から特急「スーパーおおぞら1号」に乗る予定でしたが、札幌時代の友人がメールで
「だったらせっかくだから札幌地下歩行空間を歩いたら」
のアドバイスで終点の札幌まで乗り、「おおぞら」の発車まで1時間弱あったので、地下鉄大通駅までの新しく完成した地下歩行空間を歩いて往復しました。
私の札幌時代は札幌駅から大通駅まで歩くには専ら地上で、直結する地下道など考えられませんでしたが、地下道には開店前とはいえコーヒー店やらマックやら立ち寄れる場所が目白押しで、きっと昼間はにぎやかだろうと思いました。
片道15分往復30分の地下道を堪能してちょうど6時50分に札幌駅に戻り、急いでホームに出て7時02分の「スーパーおおぞら1号」で釧路に向かいました。
南千歳までは先の「はまなす」ほか札幌時代に数往復して見慣れた車窓でしたが、そこから先は今まで乗ったことがなかった石勝線を走りました。追分駅までは牧場の中を走るかのように沿線にはホルスタインの乳牛や馬が多いのに驚きました。
追分を通過すると新夕張までかつては単なるローカル線だった区間で、山あいの中を小さな駅をつなぐように走り、新夕張からは30キロ以上も駅がない、森林の中を走り続けました。
占冠駅を通過してリゾート地で有名なトマム駅に止まり、再び森林や緑の平原の中を走り、新狩勝トンネルを抜けると、サホロリゾートやそばが名物の新得駅に38年振りに着きました。
ここから先釧路までの線路も38年振りに通りました。40年前に訪れたときは地上駅だった、今は見違えるまでの高架駅になった帯広に止まり、廃止された旧国鉄→JR池北線の北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線の線路跡が合流して十勝ワインで有名な池田駅を最後に、昼の11時08分、ようやく自分の足で38年振りに釧路の土を踏みました。


  1. 2015/07/06(月) 22:51:21|
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