trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

初めての洋画

北見から帰り、小学校2年の冬休みも最終日の1月19日、前年暮れから盛んにテレビで宣伝していてしきりに見たいと思っていた洋画がありまして、母に釧路駅前の映画館「ピカデリー」に見に連れて行ってもらいました。
タイトルは「カサンドラ・クロス」。
宣伝では列車が差し掛かった鉄橋が崩れて列車が落下するシーンが放映されていて、アニメでない実際の列車が出てくるので見たい見たいと催促し、冬休み最終日に見せてもらえる運びとなりました。
当時は列車の走行シーンに気を取られてストーリーなどわかりませんでしたが、後年テレビや古本屋で買ったパンフレットでようやくストーリーを知ることになりました。
後にシルベスター・スタローン主演の「ランボー」シリーズの監督を務めたジョージ・パン・コスマトスが監督と脚本を務めたこの映画は、バート・ランカスター演じるアメリカ陸軍大佐がスイスのジュネーブの国際保健機構(「世界保健機構」のもじり)病院で極秘に研究していた細菌兵器用の伝染病菌をテロリストに破壊され、その病原菌を浴びたテロリストがヨーロッパ横断特急に乗り込み、乗客の大半が感染して大パニックになり、陸軍大佐が兵器研究を隠蔽するために列車を30年近くも使われていない「カサンドラ・クロス」という大鉄橋に送り込み、鉄橋もろとも列車が落下・炎上するものでしたが、後に「ハリーポッター」シリーズで初代の校長先生を演じたリチャード・ハリス演じる医者が列車に乗っていて、彼の指揮で感染者に治療を施し、列車の後部3両に乗客の大半を移動させてその3両を切り離し、前部の車両が橋を渡ろうとして落下、切り離された後部の車両はライオネル・スタンダー演じる車掌が手動ブレーキを回し橋の手前で止まり助かりました。
ストーリーがわからず列車の走行シーンばかりにくぎ付けになりましたが、それでもヘリコプターから吊ったカゴに走行中の列車の荷物車から感染した犬とテロリストを運び出し、犬を載せたところでトンネルに差し掛かりテロリストを運べず犬だけをヘリコプターで運ぶハイライトシーンは、その後何度も思い出して自分が医者役のリチャード・ハリスになった気分を味わいました。
この映画は列車がパニック状態になりかつ落下、炎上するだけに、当時の映画評論では鉄道ファンには好まれないと言われたそうですが、僕はこの映画を見て寝台車に乗りたいという憧れが膨らみました。映画中の列車は日本でいうグリーン車・個室寝台車・食堂車を連結していて、日本とは違うヨーロッパの列車にこのときばかりは強く憧れました。

帰宅して、翌日の始業式を前に、作文にこの「カサンドラ・クロス」のことを書き、ドリルと合わせて冬休みの宿題を完全に済ませて、一安心しました。
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  1. 2015/08/26(水) 19:07:22|
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特別感のあった新年

釧路での生活も丸2年を過ぎ、年が明けて3年目の77年に突入しました。
正月というと、毎年ワクワクする方が大半でしょうが、僕には77年の正月はそのワクワク感が73年と同様にとても強く、何かいいことがありそうな気がしました。
三が日に初詣や父の会社の人たちが遊びに来て、その三が日が終わると冬休みの宿題のドリルや工作、2学期以降の宿題の毎日の作文を仕上げる日々が続きました。
そして釧路時代は冬休みの時期は必ず北見に行くのが恒例でしたが、例に漏れずこの年も行くことになり、1月16日の日曜日の17時15分発の北見行き急行「しれとこ3号」で北見に向かいました。
季節が季節でこの時間帯は暗い中を走り、車窓も明かりがなければ白い雪以外は何もわからない状態でしたが、例によって標茶、弟子屈、斜里、網走といつものように停車して、21時25分、北見に着きました。階段を昇って出札口に向かうと、降りたホームの向かいのホームから茶色い客車の普通列車が汽笛を鳴らして網走方面に向かいましたが、後年その普通列車の始発と終点を知り、えらく憧れました。
母の実家に着いてすぐに寝て、翌17日は冬休み中の下の従兄の小学校のグランドのスケートリンクで慣れないスケートを楽しみ、終わると実家に戻り大好きなそり遊びをして、夕食の後当時は実家にお風呂が無かったので、近くの銭湯に入りました。
北見も当時は風呂のない家がまだ多く、僕の北見の生家も風呂がなくて隣の祖父母宅のお風呂か近くの銭湯まで行っていました。市内の銭湯もいろいろでしたが、生家近くの銭湯はシンプルに普通の浴槽と脱衣所だけだったのが母の実家近くのは浴槽が普通のと白い薬湯の2つがあり、浴場の男女の仕切りに水槽があって鯉や金魚が泳いでいたので、僕としては母の実家近くの方が好きでした。
また、北見時代母の実家に行ったとき、たまに母方の伯父の車で郊外の銭湯に行きましたが、後年その銭湯は北海道で名が知れた入浴剤製造会社が運営していたことを知りました。

最終日の18日、旭川から来た11時05分ごろ発の急行「大雪1号」に乗り、「日本昔ばなし」の4冊セットの本を車内で読み、標茶を過ぎて一面の銀世界の中で2羽の丹頂鶴のつがいが仲睦まじくひょいひょいと舞っていたのにえらく感動して、15時17分、釧路に戻りました。翌々日に始業式を控えていましたが、まだ冬休みが続くような感覚でした。
  1. 2015/08/22(土) 21:43:03|
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76年の年の瀬

まず余談で、10月に父の会社の上司が僕の憧れの札幌に転勤することになり、10月3日の日曜日だったでしょうか、僕たち一家を含む会社の人たちして釧路駅で9時20分発の函館行き特急「おおぞら2号」で、札幌に向かう上司一家4人を見送りました。
「おおぞら2号」は前年僕が帯広に行くとき乗りましたが、さすがにもう乗らないだろうと思っていたら、この後思いもよらず乗ることになるとは。
叔母の結婚式が明けた11月には、父が出張でこれも憧れの札幌に行き、釧路16時くらい発の札幌行き急行「狩勝2号」を母と妹とで見送りました。数日後札幌から帰ると、いろいろお土産を買って来てくれましたが、その中で僕に「鉄道」という分厚い図鑑を買って来てくれ、その図鑑でこれまで知らなかった鉄道の歴史や海外の鉄道のことを知り、鉄道への探究心に一層火が付きました。後にその図鑑の著者が当時の国鉄の有名な工場長さんと東京の国立大学の助教授さんでして、後年その助教授さんが教授となり思わぬときに顔を合わせるとは。

5月の父の会社の厚岸での花見、夏休みの北見帰省にプールでの水潜り達成、学芸会での思わぬ主役抜擢、そして叔母の結婚と、1年のときに比べて思い出を作れた2年もようやくクリスマスの12月25日の土曜日に終業式を迎えました。
毎度のように通知表を受け取り、午前でルンルンで帰宅して、クリスマスプレゼントを買ってもらいに街に連れて行ってもらいました。その年76年のクリスマスプレゼントは、かねてからテレビCMで流れていたエポック社の「スーパーフェクション」というゲームで、従来の当社の人気商品「パーフェクション」が時間内に円型や星型等様々な形のコマをはめていくのに対し「スーパー~」の方は二つのかけらを合わせて作る立方体16個を時間内に枠に入れるもので、「パーフェクション」が平面的なのに対して「スーパー~」は立体的で、二つのかけらを合わせて立方体を作る手間がスリリングでした。
近所の同級生は作文に書いていたのですが、汽車のおもちゃを買ってもらっていて、遊びに行ったとき、僕が前年に買ってもらったバンダイの「ミニミニレール」の、D51形SLがタンク車と丸太を積んだ貨車を引くセットを床に線路を敷いて走らせていて、自分としては貨物列車が好きなだけにうらやましくもありました。
クリスマスが過ぎて28日の「御用納め」のころの夜には、父の会社の忘年会が会社隣の「スーパーまつだ」のところを右折して4軒目くらいの新しく開店した飲食店を借り切って行われ、社員のみならずその家族も総出でワイワイガヤガヤと楽しみました。僕がその年NHKの「みんなのうた」で流れてヒットした「山口さんちのツトム君」を歌ったり、みんなしてくじ引き等で景品を当てたり、お肉やアイスクリームなんかを食べたりと、中身の濃い充実した時を過ごしました。
厨房で店のマスターが奥さんや子供さんと料理やアイスクリームの盛り付けをしていたのを見ましたが、その子供さんが当時僕の隣のクラスの男子で、後に同じクラスになるとは知る由もありませんでした。
  1. 2015/08/15(土) 21:53:05|
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北見の叔母の結婚

その月の学芸会で急きょ主役に抜擢されて活躍し学年でちょっとした有名人になり舞い上がった熱も冷めやらぬ76年10月末、北見の父方の二番目の叔母が結婚することになり、一家して北見に行きました。
10月30日の土曜日、一度登校して先生に事情を話してすぐに教室を出、玄関に迎えに来た母と妹とで大急ぎで釧路駅に向かいました。父は午前中仕事で終了後に車で後を追うということでした。
駅に着き、自由席急行券を買って改札に並び、9時00分発の網走・北見経由札幌行き急行「大雪3号」で北見に向かいました。9時発の札幌行き「大雪」で北見に向かうのは北見から転勤で釧路に移ってまだ間もない74年12月以来でしたが、学校の長期休みの旅行と違い親類の結婚式だけに少々緊張感を伴い、どんな車窓だったとかどんな列車とすれ違ったかなど全く覚えていなくて、とにかく早く北見の父の実家に着きたいばかりでした。
13時過ぎに北見に着いて実家に入ると、札幌の伯父一家や警察に勤める函館の伯父、名寄に移ったかつての本別の伯母夫婦等、父方の兄弟姉妹たちが全員そろってにぎやかでした。札幌の伯父一家と名寄の伯母夫婦とは北見時代以来2年振り、函館の伯父とは初めて会いました。
今回の主賓の二番目の叔母は、北見駅の正面右にあった国鉄旭川鉄道管理局北見総合事務所で電話交換手をしていた国鉄マンで、お相手は北見機関区に勤めるディーゼルカーやディーゼル機関車を運転する機関士さんと、まさに祖父の古巣に勤める者同士でした。
久々に親類が大勢集まったのでおぜんを囲んで食事やらお酒やら談笑で盛り上がりました。僕も札幌の従兄と2年振りに会って話をして楽しみました。夏休みに札幌に行けなかっただけに、その従兄や伯父と話すのは楽しく、来年こそは札幌への思いがほのかに湧き上がりました。釧路で午前中の仕事を終えた父も夕方に車で来て、実家は一層にぎわいました。

翌31日は日曜日で、夕方5時ごろから式だったので朝から叔母の花嫁衣装の着付けや僕たちもキチンと服装を調えたりと、緊張で息つく暇もありませんでした。
式場に着き、式が始まって、新郎新婦の親類や友人たちを中心に盛り上がる中で、僕や妹や従兄たちはジュースを飲んだり目の前の食事に手を付け、式のにぎやかなムードを感じ楽しみました。
式が終わり実家に戻ると、二次会と言わんばかりに祖父母や父を始め親類全員して酒やビールを交わし、僕たち子供組は横でジュースやお菓子を飲み食いしました。ハエが頻繁に僕の頭に止まり、札幌の一番上の叔母の主人がしきりに僕の頭をハエたたきでたたきました。
夜も遅くなったので僕たち子供組は布団に入りましたが、父たちはその後も夜明け近くまで飲んでいました。

翌朝、月が変わって11月1日になり、僕たちは父の車で大急ぎで釧路に帰りました。
本当なら式が終わってすぐに釧路に帰るはずが叔母の結婚式ともなれば父もその後の酒の席を外す訳にもいかず、翌朝帰ることになりました。
夜明け近くまで飲んでいただけに父も眠気と闘いながらの運転で、さすがに途中でつらくなり、当時の国鉄相生線の終点北見相生駅近くの商店横の道路脇に車を止めて少しばかり仮眠しました。学校に遅れるだけにそわそわしましたが、事情が事情だけに責める訳にもいかず父の眠気が少しでも覚めるのを待ちました。
眠気が回復して父も運転を再開し、昼11時過ぎにようやく帰宅しました。母が遅れた旨を学校に電話してくれ、隣に住む隣のクラスの男子のおばさんの運転する車でようやく登校しました。教室に入ると4時間目の学級会の途中で、僕が誕生会係になったことを聞きました。
  1. 2015/08/09(日) 21:23:51|
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思わぬ抜擢

再び釧路時代。

2年の2学期に入り、夏休みボケも消えて本調子に戻る9月半ば、10月の学芸会の話が出、その年の僕たちの学年は劇をやることになりました。
お題はおなじみの日本昔話の一つ「さるかに合戦」。
母さんガニがおむすびと引き換えに猿からもらった柿の種を植えてその木が大きくなり、いくつもの実を結んで子供たちとみんなで食べようにも木に登れず実が取れないところに先の猿が来て木に登り、柿の実を独り占めして母ガニに未熟の青い柿をぶつけて死なせ、残された子ガニたちが蜂や臼や栗の協力で猿をやっつけるという「勧善懲悪」の物語ですが、主役脇役合わせて各クラスから2~3名が選出され、僕のクラスからは僕ともう一人体の大きい女子が出ました。
毎日放課後に練習が始まり、ミーティングで誰がどの役を演じるか決めましたが、当初僕は体が大きいことから臼の役に、同じクラスの女子が主役の母さんガニの役になりました。練習前に練習場所の他のクラスに行くと、そのクラスの女子たちが本を読んだりしているのが見え、その中には後年同じクラスになる人や父の会社の上司の娘さんもいました。
帰宅しても寝る前まで苦手な毎日の作文の宿題と併せて台本を片手にセリフを覚え、翌日の練習でそのセリフを発することの繰り返しでした。このまま、自分の体格を生かした臼の役でいくものと疑うこともありませんでした。
ところがその練習も開始から本番まで半ばになったころ、いつものように臼の役でセリフを発すると、その声の大きさに担当の先生が
「あなた声大きいから主役の母さんガニにするね」
と言い、僕が主役になって、入れ替わりに母さんガニだった同じクラスの女子が臼の役になりました。
思わぬ抜擢に緊張感もますます高まって放課後の練習は元より帰宅してからのセリフの暗記にも一層熱が入りました。

そして10月半ばの学芸会当日、午前と午後の2回本番に臨み、自分の出番が終わっても舞台袖で他のメンバーの演技を最後まで凝視し、万感の思いで公演を終えました。
その後他のメンバーと顔見知りになって会う度あいさつしたり、他のクラスの人たちや劇伴担当の他のクラスの先生からも会う度に劇での役名で
「カニどん!」
と呼ばれ、舞い上がる程のスター気分に浸り、夏休みに札幌に連れて行ってもらえなかった屈辱などすっかり吹き飛んでしまいました。
  1. 2015/08/06(木) 22:17:37|
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番外編 38年振りの釧路⑥

「おおぞら」で40年振りの帯広を後にして、根室本線の車窓を楽しみましたが、帯広以東では白糠駅で83年に廃止された旧国鉄白糠線、池田駅で06年廃止のふるさと銀河線、帯広以西では帯広駅で87年廃止の旧国鉄士幌線と愛国駅・幸福駅で大人気だった旧広尾線、芽室駅付近で12年に廃止された日本甜菜製糖芽室工場への引き込み線の跡をそれぞれ凝視しました。引き込み線以外の廃線跡は廃止から大分年月が過ぎて草むしてわかりにくくなっているだけに余計目を見張りました。
そして新得駅を過ぎて気になったのは、現在南回りにヘアピンカーブを描いて新得から落合までを結ぶ線路とは逆に、かつて同区間を北回りで狩勝峠を経て結んでいた旧線跡でした。
現在は国道38号線が通るのみの狩勝峠は、長野県のJR篠ノ井線姨捨駅・熊本県のJR肥薩線大畑駅と共に「日本三大車窓」と並び称されましたが、眺めの美しさとは裏腹に坂道が急で列車のスピードダウンの元で、しかも峠を抜ける旧狩勝トンネルは明治時代の完成だけに断面積が狭く、蒸気機関車の機関士にとっては煙に因る窒息の危険との闘いだったので、66年に今の南回りの坂道の緩い線路に切り換えられました。同時にこの区間は完全にディーゼルに切り換わり、列車もスピードアップしましたが、引き換えに狩勝峠の美しい眺めは消えました。
もっとも、現在の南回りの線路は、平地といえども緑の草原と白樺の木々が車窓に広がり、狩勝峠とはまた違った美しさなので、ガイドブックによってはその南回りの線路も引き続き三大車窓として含まれています。

新得を出て途中2つの信号場(列車の行き違いのできる設備)と新狩勝トンネルを抜け、北側に落合駅に向かう線路が分かれるのを見届けて石勝線に入り、スキーや避暑地で人気のトマム、占冠、夕張への線路が分かれる新夕張、苫小牧と岩見沢方面への乗換駅・追分、そして北海道の空の玄関口・新千歳空港への線路への乗換駅・南千歳を過ぎて20時過ぎ、札幌に着きました。
当初は札幌には寄らず南千歳で急行「はまなす」に乗り換える予定でしたが、釧路と帯広を早く出たために2時間弱ながら札幌に寄る時間ができたので、5年前に話で伺った、札幌時代の後輩の営む駅北口の居酒屋さんにお邪魔しました。
カウンター席に座り、店員さんにその後輩のマスターを呼んでもらい、数分してようやくそのマスターが出てきて、僕が札幌を離れて以来実に31年振りの再会でした。
後輩のマスターは三人兄弟の二番目で、一番上の兄は僕と同期でしたが、三兄弟共僕の近所で子供会も同じで、夏のキャンプや秋の遠足、クリスマス会でお世話になりました。
チェーン店の居酒屋ではまず出ない独自の創作メニューは、またお店に入りたい気分をかきたてるのに十分過ぎるうまさで、僕の札幌時代の小学校の先生や同級生たちが集まりや同窓会でよく利用するのもうなずけました。
まだまだ料理と酒を堪能したいのをこらえて勘定を済ませて店を出、22時00分発の夜行急行「はまなす」で北海道を後にしました。

青森に着き、新青森から「はやぶさ」で東京に戻りましたが、往路は普通車だったのが、復路は普通車が満席でキャンセル待ちも出ず、やむなく高いグリーン車に乗る羽目になりました。帰宅してすぐ出勤だったので辛抱しましたが、どうせグリーン車に乗るのならアルコールを堪能したかった気分でした。しかし帰りの「はやぶさ」に乗ったのが金曜日で週末近くだったので、普通車の満席も無理なかったと思いました。新幹線の指定席は週末を避けて、どうしても避けられなければなるべく一月前から押さえるべし、ですね。

ともあれ、38年振りの釧路は、当時の先生と再会できて、当時の不適応等のわだかまりもなく話ができたこと、40年振りに根室と帯広にも寄れたこと、そして札幌にも寄れて当時の後輩の営む居酒屋に初めて入り酒と料理を堪能できて、もう何も言うことはありません。
  1. 2015/08/01(土) 22:08:52|
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