trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

77年の夏休みを控えて…

北見から帰宅した翌週の6月23日の木曜日、朝になって急に熱が出たので学校を休み、2階の部屋で一日中寝ていました。
当然外に出られず退屈だったので、横になったまま当時購読していた学研の「3年の学習」の付録だった、学習ゲームで遊びました。
赤いロボットの顔をした角型のカバーに、国語・算数・理科・社会の科目別の縦型の問題の書いてあったカードを下から差し込み、答えのボタンを押して正解ならカードが一段ずつ上がり、不正解だとカードが下がってカバーから外れて初めからやり直しで下から差し込むというもので、余りにも楽しくてハマり、様子を見に上がってきた母に笑いながら
「こらっ」
と言われました。母が下に下りると、再びそのゲームをしながら、当時月曜夜8時から放送されていたお笑い番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」で流れて全国的に大流行していた「電線音頭」を小声で口ずさみました。
ちょうど木曜で柔道も休めて、解放感に浸れた欠席でした。

明けて7月になり、夏休みも近付き、昨年連れて行ってもらえなかった札幌に連れて行ってと母にクドクドと催促し、
「うるさい!」
と言われながらも引き下がらず、ようやく連れて行ってもらえる運びになりました。
学研の付録も夏らしいものが付き、特に科学の方には、電池で風車を回して動く車が付き、僕はその車輪を外して扇風機代わりにし、母も
「涼しい」
と喜んでいました。
終業式の一週間か数日くらい前に、開校して初めてだったと思いますが全校で相撲大会があり、以前からあった相撲クラブの児童が裸で回しを締めていたほか、一般の児童の参加者も短パンの上に柔道の帯を締めて土俵上で取り組みに臨みました。1・2年のときの担任の先生が相撲クラブの顧問をしていたようで壇上で説明の後審判も務めていました。
参加者たちの取り組みを見ながら部外者の僕はグランド内を遊びまわりましたが、熱いさなかでしきりにハンカチを出して汗をふきまくり、それを見ていた同級生が笑いながら
「また汗ふいてる」
と言って僕を追い回してハンカチを引っ込めさせようとしたので、こちらも笑いながら逃げ回りました。
それを見て審判だったかつての担任が、当時肥満児の僕に
「お前相撲やらんのか?」
と、こちらも笑いながら言いました。

前年まで夏休み前はどうもそれほどワクワクしなかったのがこの年はワクワクしましたが、このワクワクの答えは夏休みに入り証明されることになります。
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  1. 2015/12/27(日) 22:06:26|
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半年振りの北見

妹が入学し僕自身も入学以来初めて楽しめた運動会の翌週の6月11日の土曜日、下校して午後3時に柔道に通い、帰宅して夜6時に家族4人して父の会社のライトバンで1月以来約半年振りに北見の父の実家に行きました。今回は父の実家のみで母の実家には行きませんでした。
4月からスタートしたNHK土曜夕方6時からの坂本九さん司会の子供向け物知り番組「こども面白館」をオープニングまで見て消して、車で自宅を出、暗闇な中国道244号線を走り、阿寒湖を過ぎ峠を越えて国鉄相生線北見相生駅の駅舎と列車の明かりを見て、夜9時ごろに着きました。父方の一番下の叔母のまだ5歳の息子さんがいて、それまで土曜夜7時半から放送されていた「秘密戦隊ゴレンジャー」に代わり4月から同時間に放送開始した「ジャッカー電撃隊」のエンディングをしきりに口ずさんでいました。
時間が時間だけにすぐお風呂に入り、それから寝て翌朝ご飯を食べ、昼過ぎまで全員してくつろいだり話をしました。
当時祖父は僕が生まれたころから国鉄を定年退職して北見駅近くの日清製粉の工場で夜間の守衛のアルバイトをしていて、昼間は寝ていたので、祖母と話をしました。両親から聞いていたようで、祖母は僕に縫物をしながら
「へえ、柔道やっているんだ」
と、気乗りせずに通っていたこちらの気も知らずに驚きほめていました。
昼食を食べてライトバンで北見を出、いつもの経路で津別までの道道で当時の国鉄池北線の跨線橋を越え、津別からは国鉄相生線に沿って国道を釧路に向けて南下しました。当時人気の岩崎宏美・桜田淳子・ピンクレディーの曲が入ったテープを車内でかけていると、車窓左手に相生線の、当時屋根と下部が朱色で窓の部分がクリーム色の塗装だったディーゼルカーが並走していました。
いつもならそのまま通り過ぎるところを今回は父にお願いして北見相生駅前に寄ってもらいました。駅舎は国鉄の典型的な地方駅らしく、木造モルタルの白い壁に赤い屋根の平屋建てで、入口真上の
「北見相生駅」
の駅名看板は、木の板に筆書きで、都会で主流の白地に黒文字のプラスチックの駅名看板と違いぬくもりが伝わってきました。

北見相生駅から峠を経て阿寒湖を過ぎ、阿寒町の市街に近付くと
「炭鉱と鉄道館」
という、度々看板を目にしながら気にも留めなかった資料館が気になったので、こちらもお願いして寄ってもらいました。
3年になり、副教材「くしろ」やサイクリングロードでかつての雄別炭鉱と雄別鉄道のことを知りたくなったがゆえですが、入館すると案の定、当時の雄別鉄道の路線図や切符、白黒写真等がずらりと展示されていて、鉄道好きの僕の興味を引くには十二分過ぎるくらいでした。
館内には国鉄から払い下げられた当鉄道の蒸気機関車・C11型が展示されていて、実物大の機関車をじっと見たりなで回しました。展示の写真にはそのC11が引く石炭列車がカーブを曲がるシーンもあり、その年NHKの月~金曜夜9時40分から放送されていた、夏目漱石原作の銀河テレビ小説「坊っちゃん」のオープニングで流れていた小型蒸気機関車の引く「坊っちゃん列車」の走る場面と劇伴がよみがえりました。
入場券には釧路から阿寒を経て雄別までの路線図が描かれていて、4月末のサイクリングで見た雄鉄昭和駅の駅名票にもあった、自宅や小学校や父の会社の最寄り駅の中園駅も載っていて、改めて自宅そばに鉄道が通っていたうれしさと今も通っていたらぜひ乗って街に行きたかった悔悟の念とが微妙に交錯しましたが、釧路市内の臨港鉄道に加え、廃止された雄別鉄道のことを知ることができ、僕の釧路での「鉄ちゃん魂」が、輝きを増そうとしていました。

今回の車での北見は、帰りに北見相生駅と「炭鉱と鉄道館」に寄ることができ、この喜びはその後思わぬ方向に増幅します。
  1. 2015/12/19(土) 02:17:46|
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妹たちの入学と小学校3度目の運動会

初めに、僕が3年になったと同時に幼稚園を卒園した妹が入学し、僕の代で4組の担任だった女の先生が妹のクラス4組の担任になり、妹つながりで僕は1・2年のとき以上にその女の先生と話すようになりました。
最初に住んでいたマンションの近所の女の子も2人が妹と同時に入学、また引っ越し先のマンションのご近所さんでも2人が妹と同期、更には父の会社の同僚の男の子も入学しました。5月の晴れた日の朝、その入学した父の同僚の男の子と登校途中で初めて顔を合わせ、男の子の方から
「あ、O(僕のイニシャル)さんのお兄ちゃんだ」
と言われてこちらもあいさつしましたが、前年まで父の会社のリクリエーションや父と一緒に同僚の家に遊びに行ったりして顔を合わせていた子までが入学して、僕も先輩として緊張感がわいてきました。

自分でも新しいクラスや教材でワクワクし、妹始めご近所さんたちが大勢入学して学校生活が一層にぎやかになった77年度か始まって2ヶ月がたった6月5日の日曜日、僕の小学校生活3度目の運動会がありました。
運動オンチの僕にとって小学校の運動会は、これまで走るのが遅かったり段取りがうまくいかない等で先生から目を付けられたり、家では前年にプログラムの流れがわからないことで父に責められ半べそをかいたりと、いい思い出がありませんでしたが、この年はただでさえワクワクした3年生だけに、走るのが遅いとかどうこう抜きで楽しめました。
いつもなら1年生だけだった「玉入れ」が、妹たち1年生から僕たち3年生まで対象になり、玉が足りないので1年から3年の児童全員に作って持って来るように通達があったので、帰宅して母と一緒に自転車で最寄の製材所に行き、詰め物にするおがくずを玉3個分くらいいただいてきました。僕たちも助かったけど、製材所の人もいつもなら捨ててしまうだけのおがくずが有効に活用されてさぞうれしかったのではと思います。その年は僕は赤組で、母の手で赤い玉が3個できました。
学年では東欧風の曲に乗せた踊りと、うちわを持っての阿波踊りの2種類をすることになり、体育の時間での練習は盛り上がり楽しめました。

迎えた運動会当日、曇り空で肌寒い中、まず徒競走や綱引き等の定番の種目で幕が開きました。徒競走は僕は例によってビリでしたが、2年のときの学芸会の劇で劇伴を担当していた、その年5年生の担任の先生が審判をしていて、僕に当時の役名で
「カニどん!どうした、遅いじゃないか~」
と笑っていました。
それから、初めて3年生まで対象になった大人数での玉入れが行われ、赤白たくさんの玉が飛び交い、僕のいた赤組が勝ちました。
妹たちの学年の競技や踊りも見、うちらの東欧風の踊りを経て、いよいよ会場を沸かせる、うちらの阿波踊りとなりました。
当日に合わせて各自で思い思いの絵柄のうちわを作り、それを持って踊りました。授業での練習の成果が出ているのがありありと目に見え、阿波踊りの曲が終わり足をピタッと止めると、前年に僕が急きょ主役に抜擢された学芸会での劇「さるかに合戦」の午前と午後の公演を終えたときに似た、万感の思いが込み上げてきました。

「カニどん、どうした」と懐かしの先生に声をかけられた徒競走での最下位、おがくずをもらっての玉作りから準備に取り組んだ玉入れ、練習時から楽しめた阿波踊り、そして何より妹たちご近所さんたちも大勢入学して先輩としての心地よい緊張感が加わった運動会は、これまでの運動会のゆううつさがすっかり吹き飛ぶものでした。この運動会での楽しさも相まって、この後の楽しさが続きます。
  1. 2015/12/11(金) 14:25:32|
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初めてのサイクリング

日付は少し前に戻って、新しいマンションに引っ越す前日の4月29日、ちょうどゴールデンウイークの初日に、母とその年小学校に入学した妹、そして2年のときまでの近所の同級生とその弟さんとお母さんとの計6人で、かつて阿寒町にあった雄別炭鉱から釧路まで石炭を運んでいた雄別鉄道の線路跡を利用したサイクリングロードを通ってサイクリングに行きました。
自宅近くから釧路川沿いの河畔公園までは、春の遠足でおなじみの整備されていない線路跡の盛り土を通り、そこから鉄道時代の鉄橋で対岸に渡り、後は舗装で整備されたサイクリングロードをひたすら走りました。鉄道時代の鉄橋は最近になり鶴見橋と知りましたが、それまで河畔公園へ遠足やマラソン大会で行っても気付かず、このサイクリングで初めて知り、新たに世界を知った気がしました。釧路川は車やバスで国道38号線の橋で渡ったことしかなかったのが、今度は自転車ながら自分の足で渡ったので、実に新鮮でした。
対岸の昭和地区に入るとすぐに、ロード沿いに蒸気機関車の動輪が、雄別鉄道が走っていた記念のオブジェで置かれていて、目を見張りました。そして更に少し進むと、出入り口に改札台がある建物があり、かつての駅舎とわかりました。旧改札口の右横には裏返しに壁に立てかけてあった駅名票があり、裏からのぞくと
「ゆうてつしょうわ(雄鉄昭和)」
と、昔の鉄道の駅名票らしく筆書き文字で、鉄道が走っていた当時にタイムスリップした気分でした。駅名の下には両隣の駅名が書かれていて、右が「きたぞの(北園)」で初めて知る地名だったのが、左は何と
「なかぞの(中園)」
で、それこそ小学校と父の会社とスーパーまつだ近くにあったと知り、鉄道が今もあったら、街へ行くのに間違いなく乗ったろうなと複雑な胸中になりました。
昭和地区を過ぎると、それまで住宅中心だったのが沿道は薄黄色の枯れ草が中心の草むらや雑木林が中心になりました。阿寒方面に向かってひたすら走ると、今度は駅のホーム跡やトンネル、跨線橋の橋桁が見え、ますます鉄道が走っていた当時のことを知りたくなりました。

どこまで走ったかわかりませんでしたが、おそらく大楽毛北方の、空港や釧路高専に近いところの、当時の釧路市と阿寒町との境目まで走ったと思います。
正午になったところで道端に自転車を止めてシートを広げ、みんなで持ってきたお弁当を食べました。自分たちだけで自分の足で野外に出かけて食べるお弁当は、学校の遠足で食べるのとはまた違ったおいしさで格別でした。

阿寒方面にまだまだ向かいたいのを抑えて自宅に向かって戻り、鶴見橋を渡って愛国に戻ると、それまで曇り空だったのが晴れました。春の遠足で通る盛り土沿いの、別の2年時までの同級生宅にお邪魔し、お茶やお菓子をごちそうになりました。その同級生の家には「スーパーレール」という、プラレールよりもリアルに近い鉄道のおもちゃがあり、自分も欲しい気分でした。
やっとの思いで帰宅すると、疲れがドッと出ましたが、全身を使っての初めてのサイクリングは、自分の足で遠くに行けるという、今までにない喜びを味わえました。

翌日新しいマンションに引っ越し、その翌日隣に「タイスイ」が開店し、ゴールデンウイーク最終日の5月5日に釧路駅から阿寒バスで釧路市動物園に母と妹とで行きました。動物園は小学校1年の秋以来1年半振りでしたが、3年生になりワクワクした中だっただけに、不適応気味だった1年のときとは打って変わって楽しめました。

ワクワクした3年生のゴールデンウイーク、サイクリングに引っ越しに「タイスイ」開店、動物園と、釧路に住んで初めてあれもこれもと楽しめ、その楽しさはその後思わぬ方向に膨らんでいきました。
  1. 2015/12/02(水) 23:19:46|
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