trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

旅も大詰めへ

機関区内のお風呂に入り、機関士の叔父に車庫内とディーゼル機関車の運転台を見せてもらった翌13日の土曜日、朝起きて朝食を取り、暑い中父の実家周辺を歩きました。ご近所さんが移り住んでいたかつての生家、農業用水路沿いの公園、通っていた保育園、郵便局、銭湯その他懐かしの場所を歩き、帰宅すると、一番下の叔母のご主人が車で来ていて、従弟がその主人が僕に買ってくれた文庫本サイズの蒸気機関車の本を渡してきました。札幌で鉄道模型の本と蒸気機関車の本を母に買ってもらいましたが、一番下の叔父からも蒸気機関車の本を贈られて、今回の旅行も4年前に札幌に行ったとき以来の汽車づくめの旅行になりました。
日が暮れ、しかしまだ暗くならないころ、父がビールで酔っ払って寝ていた横で、僕たちは鉄板焼きを食べました。鉄板焼きのほかに焼き魚を祖母が焼いてくれましたが、野菜が当時嫌いだった僕は進んでピーマンに手を付けず、母にえらく叱られました。それでもピーマンを食べず母がますます怒り、僕は泣いてしまいました。寝ていた父が起きるとまずいので声を出さず早めに泣き止みましたが、祖母が
「ピーマン食べなくても魚食べてるんだからいい」
とかばってくれ、肉と魚とご飯を中心にたらふく食べました。
その後、かつてボウリング場だった場所が「みしま」というスーパーを中心にした「サンサンショッピングセンター」になっていて、そこで盆踊り大会があるというので、僕と妹と従弟と叔父で歩いて会場へ行き、踊りました。
北海道のお盆の風物詩と言えるおなじみの「子供盆おどりうた」に始まり、坂本九の「レッツ・キッス(ジェンカ)」等も流れて、旅の大詰めを、線香花火の炎が華やかに燃えた末に徐々に消えるかのように、楽しみました。「ジェンカ」は釧路の小学校の全校遊びや学級リクリエーションで流れていたのは、外国のミュージシャンが演奏していたジャズ調のインストでしたが、日本で坂本九さんが歌っていた歌詞付きのを聴いたのは初めてで、こちらの方が親しみが持てると思いました。後年その坂本さんバージョンを頻繁に聴くことになるのを知らず。

翌14日は日曜日で父の休みも最後だったようで、朝ごはんを食べて、まだお昼にならないうちに、祖父母と叔母と従弟に見送られて父の運転する会社のライトバンで、両親と妹して、阿寒湖経由で釧路に帰りました。内心北見から釧網線経由で汽車で帰りたいところでしたが、父が車で来たのと釧網線回りでは遠回りなので、車で帰ることになりました。

札幌で1週間、北見で5日間の計12日間という、生まれて初めての長旅でしたが、札幌が楽しいことづくめだっただけに、北見で母の実家が改装中で隣の大伯母宅に兄弟達の遺影がかかり気味が悪い中で寝泊まりした上に、プールで訳がわからず注意されて立たされるわ、鉄板焼きでピーマンを食べず母にきつく叱られて泣くわ、釧路から札幌と札幌から北見が大好きな鉄道だったのが釧路に戻るときは気乗りしない車と、まるで花道が続いた最後をつぶされたような、後味の悪い旅になり、前年夏に札幌に行くのを断念して北見に行ったことと相まって、故郷の北見に嫌気がさしてしまいました。引き換え、札幌に冬休みも行きたいと渇望しましたが、母と妹に
「ピーマンを食べなくて恥ずかしいから連れて行けない」
と嫌味を言われました。札幌への強い憧れと北見への激しい嫌悪感が内心で同居して何とも妙でした。

しかし、この後、意外な形で北見でのリベンジと札幌行きがかなうことなど、僕は予想だにしませんでした。
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  1. 2016/04/21(木) 21:06:35|
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父の実家へ

翌12日、改築で隣の大伯母宅に仮住まいしていた母の実家を出て、今度は市内の父の実家へ行きました。二番目の叔母と北見機関区に勤めていたご主人、一番下の叔母方の5歳の従弟もいて、にぎやかでした。国鉄をとうの昔に定年退職して日清製粉の工場内の夜間警備で普段夜はいない祖父も盆休でいました。
同じく盆休だった父も会社のライトバンで昼過ぎに来て、ビールが入りだんらんとなりました。みんなしてたわいもないおしゃべりに明け暮れ、そんな中、札幌の東急百貨店に行ったときに僕がはぐれて一階の外で待っていて、ようやく母たちと会えた話を母がして、父が笑いながら僕に
「お前、ダメじゃないか」
と言いました。
夕方に夕食を食べ、その後祖父と二番目の叔母の主人と一番下の叔母方の従弟と僕の4人で、すぐそばの北見機関区の浴場へ行き入浴しました。機関区に浴場があるのは北見時代から知っていましたが当時は入ったことがなく、今回初めて入りました。北見時代に入ったことがある機関区内の理容室はそのときは既にありませんでした。
広い湯船に入ると、祖父の国鉄時代の同僚も入って来て、祖父と話をしていました。僕も従弟や叔母の主人と話をしながらゆったりと湯につかりました。
湯から上がり、脱衣場で服を着ると、室内の時計に
「旭鉄局」
と書いてあって、僕が
「あさひてっきょく」
と読むと、叔母の主人が
「それは『きょくてつきょく』って読むんだよ」
と教えてくれました。北見機関区や北見駅を管轄していた当時の国鉄旭川鉄道管理局(現在のJR北海道旭川支社)の略称でした。
浴場を出ると今度は隣接する機関区の扇形の車庫に入り、主人が中を案内してくれました。車庫はかつてにぎわせていた蒸気機関車のすすがこびりついていました。蒸気機関車なき後はディーゼル機関車とディーゼルカーが車庫を埋めていました。転車台(ターンテーブル)も健在でまだ蒸気機関車がいるかのようでした。
主人がディーゼル機関車の運転台に入り、ガスマスクを見せてくれました。長いトンネルに入ったとき、機関士が息苦しくならないように装着するようになっていましたが、石北本線の生田原~金華間にある常紋トンネルが長くて断面が小さく、まだ蒸気機関車時代のすすが残っていたため、そこを通るディーゼル機関車もガスマスクを装備して機関士がすすと酸欠で窒息しないようにしていたということでした。機関区の浴場で一風呂浴びたついでに叔父に案内されて扇形車庫の中とディーゼル機関車の運転台を見ることができ、今となっては貴重な体験でした。
  1. 2016/04/16(土) 06:49:59|
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温水プールで泳ぐ

北見に着いて母の実家隣の大伯母宅で一夜を明かした翌11日、まず朝6時半に近くの公園に従弟と妹とで行き、従弟と同じ小学校の子たちと一緒に、ラジオ体操をしました。夏のラジオ体操は釧路の小学校に入学して1・2年のときに近所の子たちと公園に集まってやっていて、3年になり近くのマンションに引っ越して今度は別の公園でやっていましたが、この日北見で初めてラジオ体操に参加しました。北見の保育園時代や釧路に移り1・2年の夏に北見に行っても参加しなかっただけに、北見での朝のラジオ体操は釧路と違った気分でした。
体操が終わり地元の子たちとおしゃべりしましたが、春まで北見にいてそれから釧路に引っ越した男の子の話が出まして、その子がF君といって、ちょうど当時僕が住んでいたマンションの隣の大きな家の子と同姓だったので、もしや本人かと思いました。何せ釧路の方のF君を知ったのは5月以降で、それ以前のことは元から釧路にいたのか本当に北見から移って小学校に入ったのか定かでありませんでしたし。
一旦帰宅し、朝ご飯を食べ、しばらくテレビを見て過ごしました。北見の母の実家の朝ご飯の味噌汁は時々豆腐が入りましたが、その豆腐は当時実家の並びにあった豆腐屋さんの製品で、大通り沿いでもデパートやスーパー内でもない、住宅地の中の木造の豆腐店は、今と違い離れたスーパーまで行かなくてもすぐに豆腐を買いに行けてありがたいものでした。
10時ごろになり、従弟と妹と母とで、歩いて20分程の運動公園内にある温水プールに行き、母はプールの外のガラス張り部屋で見ていて、僕と妹と従弟で泳ぎました。その温水プールは祖母が年中泳ぎに行っていましたが、僕は北見時代に行ったことがなく(ただ保育園に入る前に父たちに連れられて行ったような気もしますが)、今回初めて入りました。
目一杯泳いだ後に一旦上がろうとしましたが、従弟がまだ泳ぐというので、更衣室から再びプールに入ると、どういう訳かプールサイドの清掃のおじさんに呼び止められて訳のわからない説教をされて立たされ、ようやく解放されてプールから出ると、母と妹と従弟が待っていて、出て来るのが遅くて心配していたので、訳もわからず清掃のおじさんに呼び止められて説教されて立たされたことを話しながら歩いて帰宅しましたが、札幌で楽しいこと続きだったのが北見に来てからどうも後味が悪く、何か嫌な気分になりました。
  1. 2016/04/12(火) 23:02:11|
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初めて朝に北見入り

初めての寝台車で興奮して眠れなかった僕もさすがに滝川で眠りに就き、目が覚めると列車は既に旭川で電機から当時の日本のディーゼル機関車の主力だったDD51型ディーゼル機関車に変わり、また遠軽で進行方向も変わっていました。石北本線で北見から西の線路を通るのは、北見時代の74年以来3年振りでした。
外は既に日が差していて、ベッドから起きて通路に出て車窓を眺めていると、今は廃止されて信号場になった金華駅を通過しました。北見時代に札幌に行った際に通過していたはずでしたが、当時は認識せず、今回初めてこの駅を知りました。金華の次の留辺蘂に1分ほど停車し、それから10分くらいして見慣れた大通りの踏切やビルが目に飛び込んだところで、朝5時50分、故郷の北見に着きました。車内放送で北見から先終点の網走まで普通列車として運転されることを知り、急行として運転されてきた列車が途中駅から普通列車に変わるパターンがあるのに驚きました。
駅正面左側の降車口を抜け、15分ほど歩いて、母の実家に着きました。これまで北見に着くときは昼か夕方か夜で、夜行列車で朝着くのは初めてでしたが、朝のひんやりした空気の中で母の実家に入るのはすがすがしいものでした。ただ、今回は実家が改装工事をしていて、夜部屋に寝泊まりすることができないため、隣の母方の祖母方の大伯母宅に寝泊まりしました。
朝着いたので、大伯母宅の台所では朝ご飯の用意をしていて、ご飯の炊けた湯気と味噌汁のにおいがしました。居間で朝ご飯をごちそうになり、玄関前で従兄弟たちと遊びつつ、同時に玄関に立って大伯母たちに寝台車に乗ったうれしさを話し、徐々にエスカレートして得意の鉄道のうんちくを傾けると、母に遠くから
「兄ちゃん、やめなさいよ」
と、鉄道の話ばかりするのをたしなめられたので、再び外に出て妹や従弟と遊びました。
この日は、昼間は近くで遊んだ後、夜は自営するクリーニング店から戻った伯父伯母や従兄たちと大伯母宅で夕食を取り、2階の部屋に集まってワイワイガヤガヤとお茶やおしゃべりに明け暮れました。札幌で買ってもらった、電熱で発泡スチロールの板を切る玩具「シュルシュルカッター」を出すと、従兄がそれでマニュアルを元にスチロール板を切って、象を作ってくれました。その象を見て伯父が
「下手くそな象だな」
と笑っていました。
お風呂もいつもなら近くの銭湯に行くところでしたが、大伯母宅にあるお風呂に入りました。実家が改装中とはいうものの、大伯母宅は鍼灸院をやっていてお灸のもぐさに火を付ける線香のにおいや、自宅前の小屋で大伯父が動物病院をやっていて動物の消毒薬のにおいが強く、また2階の寝泊まりする部屋には若くして戦争や風邪をこじらせて亡くなった大伯母の兄弟たちの遺影が掛けられていて、その日にお邪魔して帰るならまだしも、そのにおいや遺影がある中で寝泊まりするのは、申し訳ないのを承知でとても気味が悪くストレスでした。
  1. 2016/04/07(木) 21:34:22|
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3年振り3度目の札幌⑦

釧路時代の最初のマンションで同じ住人だった、共に西区に住むNさんとYさんのところにそれぞれお邪魔して、白石区の伯父宅に昼過ぎに戻りました。下の従兄と妹とで中でいろんなゲームをして遊んだり、テレビでドラマやアニメの再放送を見たりしました。
夕食と入浴を早めに済ませ、母も交えて「生き残り頭脳ゲーム」で遊びました。それまで一度も勝てなくてそわそわしていましたが、その日は無心でゲームを楽しみ、ようやく勝つことができて
「よっしゃー、初優勝だ!」
とえらく喜びました。
テレビでは、火曜日だったので、HBCで夜8時からの「木下ドラマシリーズ」の「すぐやる一家奮戦記」というドラマが、独特の主題歌のオープニングで始まっていました。そのドラマが終わるころに、僕たち3人は一週間お世話になった伯父宅をおいとまして、伯父の車で札幌駅に向かいました。
途中架線のない線路を踏切で通ったので、伯父に何線か聞くと、昔の千歳線とのことでした。後にその踏切が当時の国鉄東札幌駅近くだったこと、今は白石から新札幌副都心を経て上野幌北広島に通じる千歳線が、昔は苗穂からその東札幌・月寒・大谷地を経て上野幌に通じていて、月寒駅ではアサヒビール工場の引き込み線が接続していたことを知りました。
大通公園に差し掛かると、当然ながらテレビ塔がそびえるのが見え、電光掲示板のデジタル時計が
「21:○○」
と時を刻んでいました。
ようやく札幌駅に着き、駅前の駐車場に車を止めて、ホームまで行き、伯父も入場券を買ってホームに入り見送ってくれました。恐らく当時の8番線だったと思いますが、そこから発車する網走行き夜行急行「大雪5号」で北見に向かうことになりました。
札幌に向かう前に釧路駅のみどりの窓口で母が買ってくれた寝台券を見ていましたが、本当にこれから寝台車に乗るのかと思うと、もう鳥肌が立ち興奮して仕方がありませんでした。
当時の「大雪5号」は、A寝台・B寝台・グリーン車・普通車指定席と自由席そして荷物と郵便用の車両から成る12両の豪華編成で、仮にこれに食堂車が加われば、もうまさに1月の冬休み最後の日に見た洋画「カサンドラ・クロス」に出てきたヨーロッパ特急さながらでした。実際に寝台車に入ったとき、脳裏に「カサンドラ~」で列車に伝染病のキャリアが乗り込んでパニックになったシーンが思い浮かび、この「大雪5号」で同じようなシーンになったら、かえって面白いだろうと、不謹慎にも興奮し、また自分がリチャード・ハリス扮する医者になって乗客をパニックから救う様をも想像して一層ワクワクしました。
B寝台、今はつい先月まで運転されていた青森~札幌間の夜行急行「はまなす」の二段式や東京発着の唯一の寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の一人用個室ばかりですが、当時乗ったのは三段式で幅も今主流の70cmに対して52cmと狭かったものの、僕にとっての初めての寝台車は、後に人気の「北斗星」「トワイライトエクスプレス」同様に豪華に感じられました。そして何より、この「大雪5号」こそ、4年前に初めて札幌に行く前に北見駅の1番ホームから網走に向かって行った、ブルーのかっこいい列車の正体だったのです。
発車前にホームで伯父と別れを惜しんで話していると、同じホーム向かいの9番線にED76型電気機関車に引かれた、小樽から釧路に向かう寝台付き夜行普通列車「からまつ」が滑り込んで止まりました。これに乗れば釧路に戻るんだなと当然のことを思いましたが、「からまつ」同様にこちらの「大雪」も同じ電気機関車が引くのを知っていて、その電機が引く列車で北見に行けるというのが夢のようでした。
発車前に伯父が帰り、それから5分くらいして、22時20分に出る「からまつ」よりも早い22時15分、「大雪」はゆっくりと札幌駅を出ました。すぐそばの手動式のドアが開いたままで発車したので、慌ててドアを閉めました。
寝台に戻り、中段に挟まれて狭い下段で窓から外をずっと見ていました。僕は一人で、母と妹が二人でベッドに寝ました。当時は大人と子供か子供二人で一つのベッドに寝れる時代でした。
母と妹はすっかり眠りに入りましたが、僕は初めての夜行列車の車窓を楽しみたく、また興奮で眠れなかったのもあってまだ起きていました。岩見沢に着くと、向かいの線路に客車が並んでいて、「余市行」の行き先表示板がはめられていました。後に知りましたが、当時は夏休みの時期に岩見沢と余市を結ぶ客車の普通列車が臨時運転されていて、小樽の蘭島や余市まで海水浴客を運んでいました。
岩見沢を出てひたすら夜の車窓を眺め、気が付くと砂川に止まりました。砂川駅は当時上砂川や歌志内からの石炭の集散地で、石炭を積んだ貨車でにぎわい、駅自体も今より大きい感じで、駅舎のホーム側にも大きく
「砂川駅」
の看板が掲げられ、石炭でにぎわっていたのをアピールするかのようでした。
僕にとってこの「大雪5号」は、初めての寝台車・客車列車そして電気機関車の引く列車で、寝台でなくても電機が引く客車というのがうれしくてうれしくて仕方がありませんでした。乗る列車がディーゼルカーばかりでなかなか客車に乗れず、まして電機は見ることさえそうそうないだけになおさらでした。そのうちさすがの僕も眠くなってきて、滝川に着くころにベッドに入りました。
  1. 2016/04/04(月) 21:14:36|
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