trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

夏休みの北見でのリベンジ①

1学期や夏休みとは打って変わって嫌なことから始まった2学期は、柔道に渋々通うのみならず、学校でも体育の授業でサッカーやエンドボールで身が入らず、特にエンドボールはルールがまるでわからずわかろうともせず、先生や他の級友たちから問題視され、また給食では好き嫌いが目立ち、おかずを多めに盛り付けられて完食を半ば強要されて、食欲がうせるほどでした。
余りの好き嫌いの激しさに先生はみんなの前で
「trainrio君はおかずを食べずご飯だけ食べて大きくなったのかしら?」
と言い、それに同調する人もいて、肩身の狭い思いをしました。
一方、母に
「ピーマンとか野菜食べないから恥ずかしくて連れて行けない」
と釘を差されていた札幌への思いは無意識のうちに強くなり、月曜日の夜8時に放送されていた「紅白歌のベストテン」の合間に流れていたグリコアーモンドチョコレートのCMで、その年のヒット曲だった松崎しげるの「愛のメモリー」が流れる中で三浦友和がパリかどこかのヨーロッパの駅に最徐行で滑り込む夜行列車の扉からまだ止まらないうちにホームに降りるシーンを見て、夏休みに乗せてもらった夜行急行「大雪5号」が札幌駅のホームに最徐行で滑り込み、まだ止まらないうちに自分が寝台車から手動ドアを開けてホームに降りる様子を想像したほどでした。

そんなゆううつな中、北見の母方の祖母から、実家の改築が完了して再び住めるようになったと電話が入り、母と妹とで北見に向かいました。
9月14日の水曜日に先生に事情を話して3時間目で早退させてもらい、釧路駅に向かい、12時30分発の網走行き急行「しれとこ2号」に乗りました。東釧路駅から釧路湿原に入ったころ、ちょうど12時40分を過ぎていて
「今ごろは給食の時間だね」
と言い、母が
「ああ、そうだよね」
と返しました。前年夏休み以来1年振りの網走行き「しれとこ」でしたが、前回が暑い中で、札幌行きを断念して北見行きに変更してゆううつだったのが、今回は9月の涼しい中で、改築が済んだ実家を見れるので、爽快な気がしました。
網走に着き、接続する普通列車に乗り換えて北見に17時くらいに着くと、祖母が迎えに来ていて、先に銀座商店街のラーメン屋「ひさご」に入り、みんなでラーメンを食べました。
「ひさご」は北見時代の5歳のとき、夏休みの札幌に初めて行く数日前の夜に家族4人して行きましたが、ちょうどそのとき、お相撲さんたちが北見に巡業か合宿に来ていて、店の外をのっしのっしと歩いていて、普段はテレビでしか見れなかっただけに、札幌に行く前のワクワク感と相まって鮮烈でした。
食べ終わって店を出て歩いて着いた母の実家は、以前の木造透かし張りの上にグレーのモルタルを塗って、牧場の牛舎のような五角形の屋根になっていました。しかし何より夏休みは改築中で寝泊まりできず隣の大伯母宅に寝泊まりして気が重かっただけに、再び実家で寝泊まりできる安心感と喜びは何物にも代え難いものでした。
従兄弟そしてクリーニング店から帰宅した伯母夫婦が揃い、夏休みと今に至るまでの話に花が咲き、その日はそこで床に就きました。今回は母の実家の改築祝いだったので、父の実家には行きませんでした。
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  1. 2016/05/31(火) 23:45:55|
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2学期の嫌なことの始まり

2学期が始まり、夏休みの思い出を絵に描いたところで、新たに班替えをし、それまで男だけ女だけの編成から男女混合の班になりました。僕の班は入学からずっと一緒だったT君やKさん、2年までは2組だったS君とOさんがいました。Oさんは弟さんが僕の妹と同級生でしたが、1学期のときに僕が彼女をからかったことがあり、一方妹が彼女の弟さんの持ち物を隠すいたずらをしたので、自業自得ながら仲が悪いところがありました。

新しい班になり、月も変わって9月に入った最初の土曜日の3日、午後3時前に、内心嫌で嫌で仕方がなかった柔道にいつものように向かいました。
会場の厚生年金体育館に近付いたときに、2年まで同級生だった、同じ柔道に通う男子とその弟さんが自転車で追っかけて来て
「俺今日は柔道行かないぞ」
と言ってきて、そこを振り切って会場に向かうべきだったのを、嫌で嫌で仕方がなかっただけに「渡りに舟」とばかりに一緒にサボりました。そしてその男子と同じ1組にいた、元2年3組のいじめっ子の悪口を言ったり、大好きな鉄道の話をして、柔道が嫌だった鬱憤を晴らしました。
ちょうど柔道が終わって帰宅するころの5時半に帰宅しましたが、そこで隠せばいいものを正直にサボったと母に言い、その夜父に、こっぴどく叱られ、実際にされなかったものの平手打ちを食らわされそうになりました。叱られてからもネチネチと嫌味を言われ続けたところで父もビールで酔っていたので寝ましたが、それから母に
「あんたがサボるから悪いんだよ」
とたしなめられました。しかしその口調がそれほどきつくなかったので、母も僕が内心嫌々だったのは薄々気付いていたようでした。それでも元々「運動できるように」と柔道に通わせただけに、やめていいとは言わず、僕も嫌々で身が入らないながらも惰性で通いました。

叱られた後で土曜夜の定番「8時だョ!全員集合」を見て気を取り戻しましたが、ちょうど裏番組でプロ野球をやっていて、巨人の王貞治選手があの756号ホームランを記録して後楽園球場そしてマスコミを沸かせたことを翌日以降に知りました。野球で王さん、相撲で輪島さん、芸能界でピンクレディーと解散を翌年に控えたキャンディーズがテレビや新聞や週刊誌をにぎわせていた時代でした。

世間のにぎわいをよそに、この柔道サボりに続き、学校で運動や給食で嫌な思いをすることになります。夏休みが余りにも楽しかっただけに、それとの落差の激しさは、1年のときの不適応の比ではありませんでした。
  1. 2016/05/18(水) 21:27:20|
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ようやく2学期に

旅の最後の方で嫌なことが続いたのを除けば釧路に来て初めて爽快だった夏休みが終わり、8月20日の土曜日に2学期の始業式を迎えました。みんなそれぞれ旅等の思い出や図画工作を持って来て、どんな楽しいことがあったのかとワクワクしました。
始業式で校長先生や他の先生の話を聴いて、教室に戻り、宿題や図画工作の提出、そして一人一人夏休み中の思い出話をしてもらって帰宅しましたが、その中に男子で北見に行った人がいて驚きました。
北見のどこに行ったかはお互いに話しませんでしたが、同じクラスに北見にご縁がある人がいたのは驚きました。彼とは1学期中は同じ班で学校周辺の地図を一緒に作りましたが、5月の暮れに少し長く休んだのでどうしたのかと思ったら、同じ班の人が
「彼のお母さん亡くなったんだよ」
と教えてくれ、翌日先生からもそのことがクラスに伝えられ、学級通信にも載りました。
当時は彼も北見にゆかりがあったことでただ驚くだけでしたが、今思えば、お母さんが亡くなってから初めて北見に行ったであろうだけに、きっと胸中は寂しかったり複雑だったろうと思います。

日曜を挟んで22日の月曜日から本格的に授業が始まった一方、1年生全クラスと2年2~4組の教室前の廊下と玄関の間にある「プレールーム」では、夏休みの図画工作が展示されました。図画はプレールームの壁に貼られ、工作は並べられた机の上に展示されました。
僕のクラスからは他にもいくつか図画工作が展示されたと思いますが、代表的だったのは、T君作の「ワニ」でした。
茶色く塗った卵のプラスチックパックをつなげて、紙で目と耳と背鰭を付け、2本の糸で吊って操り人形みたいに動かせるもので、全学年全クラスの作品の中で目を引いた一つになったようでした。また、僕の作った引き出し付きの小さな本立ても印象的だったことが、後日先の「ワニ」のことと一緒に学級通信に書かれてうれしくなりました。
夏休み明けすぐの学級通信には、ワニや本立てのことのほか、同じ班だったK君が休み中39度の熱を出したにもかかわらず一生懸命になって宿題や勉強に励んだことも書かれ、始業式で聞いたことと併せて、みんなそれぞれの夏休みを懸命に過ごしたんだなと胸に落としました。
学級通信での夏休み特集は3回か4回ほど続き、母も札幌に行ったことを寄稿して、地下鉄の自動改札で切符を裏にして入れて扉が閉まったことや僕が電気機関車や寝台車や小樽の鉄道記念館に感動したので「いい社会勉強になったのでは」と締めくくっていました。

2学期最初の図画工作の時間には、夏休みの思い出を絵に描きました。僕は小樽の鉄道記念館で、木造の機関庫の「しづか号」とそれを見ている自分と伯父と従弟を描きました。それだけでは何の絵かわからないので、絵の右上に黒い絵の具で縦書きで
「小たる鉄道記念館」
と書きました。「樽」の字が難しくて書けず平仮名になりましたが、小学校に入って夏休み明けに描いた絵の中で初めて気持ちのこもった出来と思いました。こうして出来た一人一人の夏休みの思い出の絵が教室の後ろに一面に貼られ、しばらく楽しめました。

しかし、この後何か嫌なことが続きそうな予感がしてなりませんでした。札幌での1週間と北見で寝台車を降りるまで楽しかったのが以後一転して帰宅するまで嫌なこと続きで、それで済むかと思ったらどうもその後があったようでした。
  1. 2016/05/06(金) 21:18:24|
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3年の夏休みも大詰めに

北見で後味の悪い思いこそすれ、3年振りに札幌へ行って道中での食堂車や電気機関車、地下鉄や小樽水族館に鉄道記念館、そして北見に向かう初めての電機けん引の寝台車を堪能させてもらった興奮冷めやらぬ3年の夏休みも大詰めとなり、僕は夏休みの宿題の残りと、工作に打ち込みました。
工作は、図鑑の写真を元に本立てを作りました。本立ての本体は、学研の「3年の学習」の付録に付いていた、茶色の薄い合板と細い角材をのこぎりで切って木工用ボンドで接着し、ひもで固定してがっちりと接着するようにしました。
そして、本体の右に小物を入れる引き出しを二段作ってくっつけましたが、こちらは石黒ホーマー(現ホーマック)で薄いバルサの板を買って作りました。図鑑で見て、前々から引き出し付きの本立てに憧れていましたが、ようやく自作し、満足ゆく出来でした。

一方、札幌と北見から帰った翌15日の月曜は終戦記念日で、それまで終戦記念日のことなど知らずにいましたが、当時毎週月曜の夜7時半からHBCで放送されていたTBS系の「ブラザー劇場」で放送されていた「パパは独身」という、子供向けドラマで、その回が終戦記念日で豆腐屋さんの主人が当時の食糧難を忘れないために夕食にすいとんを作って子供たちに食べさせようとしたところ、子供たちがそれが嫌で逃げ出し、暗くなって帰宅してご主人に当時食糧難で苦労して材料を手に入れ、やっとの思いですいとんを作って食べたことを諭され、渋々すいとんを食べたというストーリーで、それ以後終戦記念日とすいとんが印象に刻まれました。
すいとん、今でこそ小麦粉を水でこねてゆでた団子を野菜や肉が入っただし汁で食べるのでおいしいですが、後年聞いた話で戦時中はその団子を芋の茎だけが具のお湯に入れて食べていたそうで、おいしいとは言えなかったでしょうし、先のドラマの子供たちが嫌がるのも無理ないでしょう。しかし、モノがあふれて食べ残しやまだ飲み食いできるのに平気で道端に食べ物飲み物を捨ててしまうことが多い今、このすいとんは、毎日でなくても年に1~2回は味わって、当時の食糧難そして世界で今でも食糧難にあえぐ地域があること、ひいては食べ物への感謝に思いをはせてはと思います。
  1. 2016/05/01(日) 22:14:18|
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