trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

北見から祖母が来る

前回のブログの追加で、小学校2年の6月かそのくらいの日曜日、NHKの夜6時50分の天気予報を見まして、全国の概況後の各地の天気で道内の天気予報が流れ、そのときのバックの画像で釧路市内の風景が流れまして、ちょうど中盤で釧路臨港鉄道の貨物列車がゆっくりと走る風景が出て、くぎ付けになりました。
当鉄道は石炭列車が主流ですが、当時は一般の貨物も扱っていて、映った貨物列車は箱型の貨車に屋根無しの平たい貨車、タンク車から成る普通の貨物列車で、オレンジ色のディーゼル機関車に引かれていました。専用の石炭列車よりも、国鉄でもよく見られた、いろんな貨車を連結した貨物列車の方が好きなだけに、もっと見ていたいくらいでした。

サイクリングやら市内見学やら旅行やら観劇やら、楽しいことが続いた釧路での小学校3年生も転勤まで後3日と迫った11月27日の日曜日、北見から母方の祖母が引越しの手伝いに列車で来ました。祖母は4月末の市内での引越し時にも手伝いに来てくれましたが、僕たちが釧路に住んでから引越し以外にも3度伯母たちと来てくれて、かれこれ5回目の釧路でした。
それまで少しずつ荷造りはしていましたが、祖母が来れば百人力と言わんばかりに一層荷造りがはかどりました。日曜だったので隣のスーパータイスイへの買い物以外は家族して出かけることなく荷造りに精を出し、布団等最低限の必需品以外は完了して、夕食と団らんを過ごして床につきました。

翌28日の月曜は、学校から帰ると父が母を連れて会社のライトバンで職場の同僚や取引先に挨拶回りに出たので、僕と妹と祖母とで留守番をしました。
祖母にタイスイにチョコレートを買いに行かせて出掛ける前の母から叱られましたが、すぐ隣だったので無事に帰宅して不二家のチョコレートにありつきました。
留守番の間、祖母が持ってきた毛糸であやとりをしていまして、その糸で手品をしたりして、両親の帰りを待ちました。
挨拶回りを終えて両親が帰宅して、店屋物だったかスーパーの出来合いのもので夕食を済ませ、テレビを見て、自宅での最後の夜を過ごしました。
スポンサーサイト
  1. 2016/12/27(火) 18:35:35|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

釧路時代にテレビで見た鉄道

入学して給食の好き嫌いと運動オンチによる不適応で始まりながらも、市内や近辺に鉄道スポットを見付けて図々しくも生き生きとして来た釧路の小学校時代も終わりに近付きましたが、釧路時代はリアルのみならずテレビ番組でも鉄道をよく見ました。
小学校1年の75年10月にNHKの「ほっかいどう7:30」という道内のみの紀行番組で漫画家の加藤芳郎さんと歌手の山口百恵さんが室蘭本線のSL列車に乗ったり、小学校3年の77年6月には同じ番組で釧路臨港鉄道が取り上げられて積み出し駅から港の降ろし場までの石炭列車の走行シーン、同年同月のTBS系「世界のこどもたち」で鉄道模型製作を手伝う子供たちを見ましたが、それ以外にも見た鉄道の番組がありました。

小学校2年の76年10月だったと思いますが、NHK総合の日曜午前11時35分からの20分番組に「海外リポート」というのがありました。
いつもならこの時間は日テレ系の当時大人気のオーディション番組「スター誕生!」を見ていましたが、父が時々チャンネルを変える癖があり、ちょうどそのときもNHK見たさにチャンネルを変えて、当番組が放送されていました。
タイの国が紹介され、初めに首都バンコクや他の都市や農村の風景が映し出されていて、それだけならつまらないところでしたが、場面が変わり、タイの鉄道の絶景と言われる、崖っぷちに造られた木造橋の上を、ディーゼル機関車が引く列車が走っていて、思わず目を見張りました。
箱型の機関車に有蓋車・タンク車・無蓋車が各2~3両ずつ連なり、最後尾に客車が4両という混合列車だったのでなおさら画面にくぎ付けになりました。翌月父が買ってきてくれた鉄道の図鑑にこのタイのディーゼル機関車が載っていて、同じく掲載されていた日本の国鉄のDD54形という同じ箱型のディーゼル機関車とどことなく似ていたので「あれ?」と思いましたが、両方ともドイツの技術を導入して造られたということで、納得しました。

小学校3年の77年10月には、同じくNHKで火曜夜7:30に放送されていた「NHK特派員報告」という、文字通りNHKの海外特派員が滞在地の出来事を通常のニュースよりも深く詳しく報告する番組があって、こちらは事前の番宣で知っていたので、いつもならTBS系の「ぴったしカンカン」を見るところをNHKにチャンネルを合わせました。
この回は、ヨーロッパに旅行に行った日本人女性が行方不明になり、捜索したところ鉄道の線路沿いに遺体で発見されたというもので、女性が国際列車に乗り、トイレに行く際に扉を開けたところ間違えてトイレでなく車外で、誤って転落して頭を打ち付けたか何かで亡くなったようでした。
ヨーロッパの鉄道車両は、内側に開く日本の客車と違って、扉が外側に開く構造で、海外のガイドブックの中には、転落する危険があると注意書きがあるほどでした。
弟さんが、女性が倒れていた線路際まで行き、涙を流しながら花束を添えていたのを見て、それまで見ていた鉄道の番組と違い、胸を締め付けられました。
この「特派員報告」を見た感想を自主的にノートに書いて家庭学習として翌日先生に出すと
「随分難しい番組を見ているんですね」
とコメントが書かれていました。普通家庭学習というと、算数の計算や漢字の書き取りくらいなだけに、作文、それもNHKのドキュメント番組の感想文で担任も驚いたようでした。

同じく77年でこちらは9月か10月でしたが、NHKで当時月曜夜8時台に放送されていた紀行番組「新日本紀行」で、江ノ島電鉄(江ノ電)のことが放送されていました。
いつもならこの時間は日テレ系の「紅白歌のベストテン」かテレ朝系の「みごろ食べごろ笑いごろ」を見ていたのが、こちらも事前に番宣で知っていてチャンネルを合わせました。
神奈川県鎌倉市と藤沢市を結ぶ私鉄で、当時の社会の教科書の表紙が鎌倉駅の写真だったので一層親近感がわきました。会社名の由来の江ノ島や沿線の七里ヶ浜の地名が印象に残りましたが、北海道に住んでいただけに、鎌倉や藤沢に後年思わぬご縁があることなど知る由もありませんでした。
  1. 2016/12/21(水) 19:01:08|
  2. 鉄道
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

釧路での最後のサイクリング

転勤を知らされる前から、示し合わせたように、厚生年金体育館や学校、近くの会館で公演を見ることが短期間のうちに続き、運動オンチや給食の偏食をクラスで白眼視されて肩身が狭かった僕に、あたかも
「元気出しな!」
とエールを送っているような気がしました。

釧路で最後の観劇から週末をまたいでまだ1週間もたたない11月23日の水曜日、勤労感謝の日で学校が休みだったので、母と妹の3人で、夏休みにクラス有志で行った西港公園へサイクリングに行きました。父はこの日は仕事でした。
朝10時くらいに家を出て、まだ整備されていなかった砂利道のままの雄別鉄道跡の盛り土から、先はサイクリングロードとして舗装整備された釧路川に架かる鶴見橋を経て、旧雄鉄昭和駅の建物や蒸気機関車の動輪を飾った記念のオブジェを横切り、途中南下して国鉄の線路をまたぎ、新富士駅南側の西港公園にたどり着きました。
公園に着くと、ブランコ、滑り台等の遊具でまず遊びました。晴れていて、外出日和の気持ちいい天気で、爽快でした。正午を過ぎたところで母が作って持って来たお弁当を食べました。
食べ終わると、少し休んで再び遊具で遊び、小高い丘に上って新富士駅構内に止まっていた貨車群を眺めました。駅から公園を挟んで向かいの沿岸近くでは、新しい石油タンクが建てられ、横には線路が敷かれていました。新たに鉄道の線路が敷かれるのはそうそう見ないだけに、何ができるのかと興味津々でした。
再び新富士駅構内を見ると、止まっていたとび色の箱型の貨車の編成が機関車に押されて、左側に向かう引き込み線に入っていきました。駅に接続していた、十條製紙(現・日本製紙)の工場に向かう引き込み線で、おそらく紙を積み出すために、貨車を入れたのでしょう。近くで同様に駅構内を見ていた家族連れのお父さんが
「貨車が工場に入って行ったよ」
と家族に言っているのが聞こえました。

十條製紙、赤と白の縞の煙突が印象的で、春の遠足や秋のマラソン大会、個人で釧路川沿いの河畔公園に行くと必ず目に入り、釧路時代の思い出の光景の一つでした。
工場から国道38号線を挟んで向かいには、工場直属の十條サービスセンターというショッピングセンターがあり、母と妹の3人で愛国から労災病院や雪印、スーパーまつだや石黒ホーマー(現・ホーマックを)の横を歩いて国道の三差路そばの「三共」というバス停まで歩いてそこからバスに乗って何度か行きました。センター内には当時噴水があり、小銭を投げ入れると願い事がかなうとされていたようで、ローマのトレビの泉にあやかったのか
「十(クルス)の泉」
と名付けられていて、「十」を十字架に掛けてローマ風に「クルス」と読ませていたのが美しく思えました。当時は疑問を感じませんでしたが、後年「十(クルス)」が何のことかと思っていたら、ネット上の憶測ですが、十條製紙の「十」と知って納得しました。
更に、工場の西隣りには鳥取神社があり、実家が神道の母が厄年で釧路に越した直後にお祓いに行き、また、神社の隣には冬にスケートリンクになるマンモスプールがあって学校の夏のプール授業や夏休みに泳ぎに行ったりと、釧路の思い出の一つになりました。後年そのマンモスプールが当時十條製紙の附属施設で、工場の排熱をプールの温水に利用していたこと、冬はスケートリンクで開放のほか十條製紙アイスホッケー部(今の日本製紙クレインズの前身)の練習場でもあったことを知りました。

再び西港公園で、貨車が引き込み線に入るのを見届けて、丘を下りて名残を惜しむようにブランコや滑り台で遊び、まだ日の沈まない明るいうちに、公園を後にして行きのルートを逆に走り、暗くなるかならないかの夕方4時に帰宅しました。
家から盛り土までは春の遠足、鶴見橋から途中南下するまでは4月末にFC君たち母子と阿寒方面に行ったサイクリング、そしてそこから公園までは夏休み前の終業式後にクラス有志で行ったサイクリングのまさに再現で、今回の家族3人だけのサイクリングは、釧路時代、特に3年になった当年の遠足やサイクリングのちょうど総集編になりました。転勤まで1週間になり、これまでの遠足やサイクリングが一層思い出に刻まれました。
  1. 2016/12/15(木) 12:32:06|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

釧路での最後の観劇

クラスで札幌転勤のことを話すと、1年から一緒だったHM君やTB君たちが、他のクラスの1・2年時の同級生にその旨を話し、5組のTB君たちほか、僕たち4組とのクラス同士の対立で仲たがいしていた1組のIB君も、対立のことなど忘れて別れを惜しんでくれました。

札幌転勤をクラスに話した翌日の11月18日の金曜日、3年になって3度目の子供会ぐるみでの観劇がありました。
今度は小学校や労災病院、雪印の営業所やスーパーまつだに近い愛国会館が会場で、前年暮れにクラスのお楽しみ会で入って以来でしたが、今度は劇団公演でどんなものかとワクワクしました。
学校から帰って午後3時くらいに僕と1組のFC君、5組のHR君の3人が会館に集まり、子供会のスタッフの運転するライトバンに乗って町内を回りながら、僕、FC君、HR君のローテーションで、印刷されたプリントを見て、公演の案内をマイクで宣伝し、道行く子供たちに公演の案内状を配りました。
ゆっくり走る車でマイク越しにスピーカーで宣伝するのは、ちり紙交換や選挙カーさながらで、HR君がふざけて
「鰐淵でございます」
と、当時の鰐淵俊之釧路市長の選挙回りのマネをして、スタッフから注意されていました。
車での宣伝回りを終えて会館に戻ると、妹や近所や町内の子たちが親と同伴で集まって、開演を待っていました。

夕方5時にようやく公演が始まり、私も舞台に目を凝らしました。
今回の公演は、大阪の「クラルテ」という人形劇団で、下から操るマペット人形のほか、画用紙等身近なもので人形を作って演じました。
若い女性団員が緑の画用紙を縦に細く丸めて「ノッポーン」という細身の人形を作り、漫画家の富永一朗さん似の、黒縁眼鏡をかけた太めの男性団員がオレンジの画用紙を横に太く丸めて「デブデーン」という太った人形を作って、二人で掛け合いました。男性がデブデーンの人形を作るとき、画用紙を丸めたり折ったりしながら、いろんなものに見立てて子供たちの興味を引き、特にデブデーンの人形を作る前にオレンジの画用紙を丸めて左手で持ち、右手をその筒に通して
「ポッポー」
と汽車が通るマネをして、子供たちにその筒を
「トンネル!」
と答えさせたときは、根室本線落合~新得間を貫く新狩勝トンネルが浮かびました。

画用紙人形ができて公演が始まり、あいさつの後、ノッポーンが
「僕はノッポーン、すたすたすたすた♪」
と高い声で歌いながら坂道を登ると、デブデーンも続いて
「僕はデブデーン、どんどんどんどん♪」
と野太い声で歌いながら坂道を登り、その丸い体故に何度か坂道を転げ落ちて笑いを誘いながら、ようやく坂道を登り切り、別の場面に移りました。
ノッポーンは操る女性らしく、普通の話をしていたのが、デブデーンはその体格からカレーやラーメン等食べ物の話ばかりして、これも笑いを誘いました。
ノッポーンとデブデーンの掛け合いが終わると、今度はかこさとしさんの絵本でおなじみの
「だるまちゃんとてんぐちゃん」
が始まりました。
てんぐちゃんの持っている、カエデの葉っぱみたいな天狗のうちわが欲しいと、だるまちゃんがお父さんに相談し、気に入ったうちわがなくてヤツデの葉っぱをうちわにし、次に天狗の鼻が欲しいとせがんでお餅で鼻を作ってもらうという童話で、僕には北見の保育園時代から読んでいて、釧路でも図書館バスで借りて読んでいたほど思い入れがありました。
だるまちゃんがお父さんだるまにわがままを言ったとき、お父さんが
「父さんは通さん」
とダジャレを言ってだるまちゃんの行く手を阻んだときは、僕も含めて観客が大爆笑しました。
夜7時頃に公演が終わり、妹やご近所さんたちと帰るとき、マンションの隣の部屋に住む4年生のTNさんという女子が
「ノッポーンとデブデーンの人形をいただいたよ」
とうれしそうに話していました。

翌朝、クラスで、僕が公演の宣伝をしていたことに、日ごろの運動オンチと給食の好き嫌いにかこつけていちゃもんを付けてきた人もいましたが、釧路時代最後の観劇は、前年暮れにクラスで使った学校近くの会館で、しかも画用紙等でその場で作る人形で演じたのと、デブデーンが食べ物の話ばかりしていたこと、北見の保育園や釧路の図書館バスで親しんでいた絵本を人形劇で演じて、厚生年金体育館の大舞台で演じる公演とはまた違って楽しめ、釧路時代末期の思い出になりました。
  1. 2016/12/12(月) 18:10:46|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

思いもよらず…

11月も半ばになり、新しい班のメンバーともなじみ、それが度を越してふざけて1年からの同級生の女子TNさんにお叱りを受けたこともありましたが、そういう中の11月16日の水曜日、学校から帰宅して柔道もなかったので家でテレビを見て、夕食が済み、父が帰宅して、札幌に転勤することを知らされました。
いろいろありながらも釧路になじみ、新しいクラスもまだ1年たっていない上、当時住んでいたマンションもまだ半年だけに
「また転勤かよ」
と、当初は抵抗がありました。
しかし、夏休みに行った札幌に冬休みも行きたいというのを
「とんでもない」
と母に反対されていたのが、転勤で釧路に戻れないとはいえ、思いもよらず実現するわけで、転勤を知って日がたつにつれてうれしくなり、ワクワクしてきました。母も
「冬休みは絶対札幌に行かないと思っていたのが、かなっちゃったね」
と笑っていました。
父から転勤を知らされた翌朝登校すると、担任の先生に転校する旨を話し、給食の時間に
「札幌に行ったら手紙ちょうだい」
言われ、クラスにも転校することが知らされて、みんな驚いていました。

両親から
「転勤するからもう行かなくていいよ」
と言われたので、断りもなく柔道に行かなくなり、通っていた同じ学校の1年先輩のEBさんから校内で
「柔道どうしたんだ?」
と言われたので、札幌に引っ越すことになったことを話すと、納得しました。
同じく柔道に通っていた他校の男子が同じ小学校の隣の3年3組に転校してきて、僕が柔道がさっぱりダメということを皆に言いふらして何とも複雑な気持ちでしたが、僕が柔道に行かなくなったのでどうしたのかと聞かれ、札幌に引っ越すことを話すと
「いいないいな、雪も多くてスキーできるんだろ」
とうらやましがられました。

札幌に引っ越すことになって、妹や隣の部屋に住むTNさんや向かいの棟に住むABさん、更にその隣の一軒家に住むFJ君たちとの遊びも、一度ABさんやFJ君をいじめて母にこっぴどく叱られたことこそありましたが、TNさんの部屋で「ポンキッキ」や「ピンポンパン」の夕方の再放送を見たり、フォークダンスでおなじみの「オクラホマミキサー」に詞を付けた「わらのなかのしちめんちょう」や「ひみつのアッコちゃん」の主題歌のレコードを聴いたりして、残り少ない釧路でのひとときを名残惜しく楽しみました。夕方のアニメの再放送見たさにフジテレビ系のUHBにチャンネルを合わせると、4年に1度のバレーボールワールドカップが放送されていて、局アナ時代の今は亡き逸見政孝さんがナレーターを務めていました。
  1. 2016/12/07(水) 14:32:30|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2