trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

札幌暮らしの始まり

父の会社の健保会館での一夜が明けてちょうど12月1日で冬に入り、朝食を済ませて朝9時くらいにチェックアウトして、迎えに来てくれた会社の車で、新居に向かいました。
どんなところかなと、車内でワクワクしましたが、着いたところは、北区の新琴似という場所で、二階建てマンションの一階で、マンションすぐ横の道路をまっすぐ5分くらい歩くと、国鉄札沼線の新琴似駅にぶつかる、鉄道好きの僕には実に好立地な住まいでした。
ちょうどトラックが着いて、作業員さんたちと一緒に荷物を部屋に運び、ある程度整理して、空いたスペースにみんなして輪になって座り、父たちはビールを、僕と妹はソフトドリンクでお菓子やおつまみを食べながら話しました。
父たちもビールが回ってにぎやかになったころ、前年に同じ「おおぞら2号」で札幌に転勤した、MKさんがあいさつに来ました。同じ北区に住んでいたので、父には一層心強かったと思います。
会社の人たちが帰って、再び荷物を整理し、5人なのでまだ明るいうちに片付いて、すぐ寝られる状態になったところで、僕は新琴似駅がどんなところか見たくて、家族に一声かけて駅まで行きました。
駅から近いところに住むのは、北見時代以来でしたが、新琴似駅は当時は木造モルタルの平屋で、駅舎は線路の向こうの麻生側にあり、踏切を渡って行かなくてはなりませんでした。今のように線路沿いに柵がなく、自宅側の島式ホームに外から入れて、周囲を見回しましたが、駅舎側のホームを歩いていた駅員にたしなめられたので、ホームを出て帰宅しました。
それから祖母に留守番を頼んで、線路を渡ってすぐのところにある、「ニトリ家具」という家具店に4人して行きました。
せっかく札幌に来て比較的広い部屋なので、ダイニングテーブルを買いたかったようで、木製の4人掛けのテーブルを買いました。帰宅して、トラックでテーブルが届き、椅子を置いて添付のネジでテーブルを組み立て、まさに心機一転のスタートになりました。

「ニトリ家具」、買いに行った店は麻生店で、当時の本社は中央区であり、札幌市内のみの展開でしたが、今や「ニトリ」として全道から日本全国そして海外にも展開し、その麻生店が今や本社になるなど当時は想像もしませんでした。
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  1. 2017/01/19(木) 13:32:09|
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札幌への道中

列車自体は3度目でしたが、札幌に向かう際の乗車は夏休み以来約4ヶ月振り2度目の「おおぞら2号」での道中は、季節が秋だったこと以外は夏休みの札幌への旅とほとんど一緒でした。

釧路市内を出て白糠、音別を通過したころ、車内販売のカートが来て、当時テレビで宣伝されていたボトルの「カゴメミカンジュース」を買ってもらい、前の席の背もたれのテーブルを開いてボトルを置き、スクリューキャップを開けてストローを差し、足を組んで少し偉い人になった気分で飲みました。そうそう飲むことがない果汁100%の正真正銘の「ジュース」は、ミカンのおいしさがそっくりそのまま口に広がりました。
車内で家族と話しているうちに、釧路管内から十勝管内に入り、気が付くと、「10ドル」と読めて縁起が良く入場券が人気だった十弗(とおふつ)駅に差し掛かったので、次が池田駅と知っていて、車窓に目を凝らしました。
釧路での柔道で一緒だった他校の先輩に池田町に行った人がいて、駅前の噴水が夜になるとワイン色に変わると話していたのを思い出しました。駅舎に阻まれてその噴水は見えませんでしたが、駅裏のワイン城は何にも阻まれず堂々と見えました。
池田駅を出、故郷北見に通じていた今はなき池北線の線路が北に分かれるのを見届け、次に通過した利別駅は夏休み同様6両編成の滝川発釧路行き客車鈍行がこちらの列車の通過を待っていました。
帯広に着くと、釧路の小学校入学の前後に二度お邪魔した母方の親戚のOCさんに思いが巡りましたが、OCさんは僕たちよりも一足先の10月に札幌に転勤して、もう帯広には誰一人親戚も知人もいませんでした。ホームの向かいには、今はなき士幌線の2両編成のディーゼルカーが止まっていて、車体中央に掛かっていたサボ(サービスボード、行先表示板)には
「帯広ー十勝三股」
と書かれていて、あの十勝三股に行くのかと目を見張りました。
釧路で最後の半年住んでいたマンション時代にNHKの朝の道内のみのリポート番組「北海道の窓」で、士幌線の終点の十勝三股駅前に住む人たちのことが放送されていて、住民が士幌線に乗って帯広方面に行く以外は何を放送していたのかわかりませんでしたが、おそらく駅前の住民が少なくなって過疎化していたという内容だったと思います(事実、翌年それを受けて糠平~十勝三股間がバス代行になりました)。
もう二度と行くことはなかろう帯広を出ると、外は雪が降っていて、もう明日から12月で冬なんだなと実感しました。再び家族と話していると、新得駅に止まり、落合までの当時国鉄最長の駅間区間(28.1km)に入りました。
駅と駅との間がそれだけ長いながら駅が一つもなく、ひたすら無人同然の原野を走りますが、途中列車同士が行き違いをするエリア(信号場)が三ヵ所あり、ちょうど正午を過ぎたころ、そのうちの一ヵ所に止まりました。昼時だったので母と妹とで食堂車に行き、僕はトーストを注文しました。母と妹はサンドイッチだったと思いますが、トーストが来て、添え付けのバターを塗り、焼きたての香ばしさとバターの風味とのコラボレーションを堪能しました。向かいの線路を、函館から来た釧路行き「おおぞら1号」が通過して行きました。夏休みに同じ列車で同じ時間に対向列車の通過を待って食堂車でトーストを食べたことが蘇り、改めて冬も札幌に行くことが実現する喜びを感じました。
再び列車が動き、こちらも食事を終えて席に戻ると、十勝管内から上川管内に入り、落合、幾寅と、今廃止が取り沙汰されている駅を通過しました。幾寅駅はその独特の名前で夏休みに通過したときから印象に残っていましたが、後年映画のロケで有名になるとは…。
こちらも後年ドラマで有名になる富良野駅に止まり、上川管内から空知管内に入り、まだヤマの灯がともっていて駅構内に石炭を積んだ貨車がひしめいていた芦別と赤平を過ぎ、右から函館本線の複線と架線が合流して、滝川に着きました。向かいのホームに当時北海道唯一の電車特急だった札幌~旭川間運転の「いしかり」が止まっていて、目を見張りました。
「いしかり」の存在は、釧路の父の会社向かいの行きつけの寿司屋さんで見た「マガジン」の類の週刊マンガ誌に載っていた、全国の特急列車特集で初めて知りましたが、夏休みに札幌に行ったときは電気機関車にかまけて目が向かず、もう見ることないと思ったら、札幌転勤で見ることになるとは…。
以後は電化区間らしく電車や電気機関車と頻繁にすれ違い、岩見沢を出て操車場と電気機関車の車庫を望み、空知管内から札幌を擁する石狩管内に入り、江別市は野幌の北海道開拓百年記念塔を望み、踏切番が回転ハンドルでワイヤーを操作して遮断機を昇降させる踏切と「ハウスバーモントカレー」の広告看板が掛かる倉庫が見えて、15時15分、ようやく憧れの札幌に着きました。
改札を出て、父の会社の人が迎えに来ていて、車2台に分かれて乗り、父の会社の健保会館に入り、その日はそこで止宿することになりました。

しばらく部屋でくつろぎ、食堂で当時再放送中だった「ひみつのアッコちゃん」を見せてもらいながらみんなで夕食を取り、それから白石区は北郷の伯父宅にお邪魔しました。
釧路で買った「白い恋人」を渡し、テレビを見ながら夏休みにお邪魔したことや釧路でのことをみんなして話し、お茶やココアをごちそうになって健保会館に戻り、翌日に備えてぐっすり眠りました。
  1. 2017/01/17(火) 13:47:34|
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さよなら釧路

釧路最後の登校を終えて住まいを出、旅館での一夜が明けた11月30日水曜日の朝6時、僕はみんなよりも一足早く目が覚めました。窓から釧路駅を見ていて、11月といえどこの時間帯はまだ明るく、6時15分に札幌からの夜行急行「狩勝4号」が着き、それに接続して6時25分発根室行き急行「ノサップ1号」と後続の6時41分発根室行き客車鈍行そして6時31分発の網走行き気動車鈍行が出ていましたが、それらには目も暮れず、6時45分発の函館行き特急「おおぞら1号」の発車を待ち、駅舎左手から列車が出て行くのを見届けて、着替え等支度をしました。
家族全員で1階の食堂に行き、カレー等の一品ものに目が向きましたが、父が
「定食にしなさい」
と言ったので、全員して朝定食を食べました。これまで外食では一品料理ばかり食べていたので、定食は初めてで意外でしたが、ご飯に味噌汁、焼き魚、煮物と、家庭料理そのもので、釧路を離れる緊張感の中で食堂内のテレビの音声を耳にしながら釧路最後の朝食を終え、一旦部屋に戻りました。よくよく思えば、3年前に北見から釧路に来てすぐ泊まった旅館の翌朝の朝食も、先のと同じような定食でした。
僕と父の部屋に母と妹と祖母も集まり、母が
「兄ちゃん、これ」
と言って、青い小袋に入ったお菓子をくれ、開けて食べました。薄く焼いたクッキーに白いクリームみたいなのが挟まれていましたが、今まで食べた中で「ガツン!」とパンチの効いたおいしさが口一杯に広がり、更にもう一枚食べました。このお菓子こそ、今や北海道を代表する銘菓「白い恋人」で、クッキーみたいな生地は「ラングドシャー」といい、それに挟まれた白いクリームみたいなのはホワイトチョコで、今まで食べてきたチョコレート菓子が色あせて見えるほどでした。
身なりを整え荷物を持って旅館を出、目の前の釧路駅に向かうと、父の会社の人たちを始め2年のときまでの同級生の女子TNさんのお母さん、前のマンションのご近所さんたちが見送りに来ていました。
父が会社の人たちと、母がTNさんのお母さんやご近所さんたちと話しながらお互いに別れを惜しみ、全員で改札前の1番ホームに出、僕たち5人は止まっていた函館行き特急「おおぞら2号」に乗りました。列車に乗るとき、横にいた祖母に
「ばあちゃん釧路から札幌に汽車乗るの初めてだよね」
と言いましたが、当然ながら普段北見にいて普通に考えれば札幌に行くなら北見から直行となるところが、引越しの手伝いとは言え祖母が一旦釧路に来てそこから札幌に行くというのが珍しく、印象的でした。
ホーム側の席に全員して座り、集まった人たちが僕たちの席に向かって、父の前途を願う言葉をかけ、最後に全員して
「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」
と転勤等で見送り恒例の万歳三唱をして、9時20分、発車の汽笛と共に思い出多い釧路を後にしました。前年10月に父の上司のMKさん一家が札幌に転勤するときに乗ったのと同じ列車に、今度は僕たちが乗って札幌に向かおうとしていました。そして何より、夏休みに同じ列車で札幌に旅行に行ったのが、今度は旅行でなく釧路には戻らない札幌転勤で、何とも言えない感慨がわき上がりました。
車内放送が流れる中、右手の機関区と客貨車区、新釧路川を渡って南側にサイクリングで2度行った西港臨海公園と北側に十條製紙を望む新富士駅、そして本州製紙と阿寒湖に向かう国道240号線を望む大楽毛駅と、もう二度と見ることはないであろう釧路の風景が川の急流のように過ぎていきました。
  1. 2017/01/13(金) 21:44:47|
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釧路での住まい最後の日

釧路での住まい最後の夜が明けた11月29日の火曜日、僕は妹と釧路での最後の登校をしました。
いつものように朝礼の後授業が始まりまして、この日は体育がなく6時間すべてが教室での授業で、午前中の30分休み後の3時間目から算数や国語等のドリルを各自で解くものだったこともあり、みんなしてドリルを解きながら、一方で僕のために先生や級友たちが折り鶴を折ってくれました。
偏食や運動オンチを責めていた人たちも別れを惜しんで鶴を折ってくれ、特にKC君がたくさん折ってくれたので、先生がKC君が僕を責めていた一人と知っていただけに
「trainrio君、KCが結構折ってくれたんだけどいい?」
と聞いたので
「いやいや、OK」
と言い、KC君にお礼を言いました。
給食を経て、5時間目まで授業がてらみんなが鶴を折ってくれ、先生がまとめて鶴に糸を通して折り鶴の束が完成して、最後の6時間目は通常の、先生の話と板書の授業で、シーンとなりました。
授業がすべて終わり、終礼が始まる直前に母が教室の扉に来て、自宅そばの文房具屋さんで買ってきた、クラスの人数分のノートの束を持ってきたので、それを受け取り、終礼が始まって、先生が僕が札幌に転校することをみんなに伝え、みんなの前で僕から日直のNZ君にお礼のノートの束を渡し、最後にみんなの前で
「どうかお元気で」
とあいさつをして、教室を後にしました。
教室を出る前に、折り鶴ほかKC君や11月初めに大楽毛から転校してきたTN君が、自身の持ち物のシャープペンシルをくれ、また10月に八王子から転校してきたMTさんも
「これあげるね」
と言って、当時グリコのお菓子のキャラクターだった、「キッシーズ」という女の子のキャラクターのソフビのマスコットをくれ、これまでの楽しい思い出が一気に浮かびました。
教室を出ると、今度は先生が
「これ先生からもね、元気で」
と、細長い袋に入った黒いシャープペンシルをくれました。
教室を出てすぐのロビー前の職員室前に母と妹がいて、母が妹の担任のYJ先生と僕の2年までの担任だったST先生にもあいさつをしたようで、最後に僕の最後の担任のST先生にもあいさつをして、帰宅しました。

帰宅すると、最後のあいさつに1年のときからずっと同じクラスだったTB君とYZ君が来ていて、最後の荷物整理をしながら3人してバカを言い合い、また1年からの思い出話を母も交えてしながら、残り少ない釧路での住まいのひとときを過ごし、最後に二人が車か飛行機のプラモデルをプレゼントしてくれました。
TB君は、1年の入学時から同じクラスで、そのころから友人の少ない僕のところに遊びに来てくれました。母も
「いい子だったよね」
と後年になっても評していたほどでした。一方、YZ君は、1年の2学期が始まって市内の清明小学校から転校してきて、僕と同じ区域内に住んでいて、僕の前のマンションで先生を交えての懇談会があったとき、お父さんがよく来ていました。
3年のクラス替えで別れ別れになるかと思いましたが、幸いにも3人してまた同じクラスになり、しかも最後の別れに3人して揃い、高揚感はマックスでした。
荷物の整理も済んで後は引越業者に任せ、二人に別れを告げて、僕は母と妹、祖母で半年住んだマンションを後にしました。

バスで釧路駅前の、当時の金市舘デパートの二軒左にあった、父から事前に知らされていた「乙女屋旅館」というホテルに、会社から直接来た父と合流し、チェックインしました。部屋は3つに分かれて、僕は父と、妹は母と、それぞれ一緒の部屋で、祖母だけが単独でした。
部屋で上着を脱ぎ手荷物を置き、しばらくテレビを見たりして、祖母と父はホテルに残り、僕と母と妹とで、駅地下のステーションデパートの食堂に行きました。
食堂で僕はこの年初めて食べてえらく好きになったカツカレーを注文し、母と妹もそれぞれメニューを注文し、母と妹のが先に来て食事にありつきました。
ちょうど時刻が18時55分ほどで、19時00分に小樽行きの寝台付き夜行普通列車「からまつ」が発車するので、1階の改札に上がって、スピーカーから、空洞内で鳴るようなくぐもった発車ベルの音声が流れ終わり、ディーゼル機関車の汽笛が鳴って列車がホームを出るのを見届けて、地下の食堂に戻ると、母が
「兄ちゃん、カレー来てるよ」
と言っていて、僕が戻る少し前にカツカレーがテーブルの上に出されていました。
母と妹は既に食べ終わっていたので、急いでカレーを掻き込み、19時20分ごろに食べ終えて旅館に戻りました。
部屋に戻ると、父がベッドに入っていて、テレビでNHKのニュースを見ていました。ニュースは19時半までで、その後HBCテレビで「ぴったしカンカン」が始まるので、父にお願いしてチャンネルを変えて見ました。
「ぴったしカンカン」は、小学校1年の75年10月から始まっていて、ほぼ毎週のように見ていました。北見時代に始まっていながら当時は見なかった同じ火曜日の19時00分からの日テレ系「スターアクション」と共に、釧路時代思い出のテレビ番組でしたが、釧路での最後の夜に本番組を見るとは思いもよらず、同時に釧路での日々が走馬灯のように浮かび流れました。
番組が終わると父がNHKに替え、僕も一緒になって見ました。
20時45分のニュースが終わるとテレビを消して父は寝ましたが、僕は部屋の窓から釧路駅の右横にかろうじて見えていた、1番ホームの夜行急行「狩勝3号」を、発車まで見ていました。
小学校に入ってから部屋の時刻表で列車の存在は知っていて、釧路を夜出て翌朝札幌に着くのも知っていましたが、ちょうど駅横に見えていた車両が寝台車で、夏休みに札幌から北見まで寝台車に乗ったことが思い出されました。
「狩勝3号」はまた、僕の小学校1・2年の同級生に乗った人がいて、バイオリンが特技のWT君が1年のGWに青森に行ったときに往復で、3年になって3組になったYM君も6月に僕より先に札幌に転校したときに乗った列車でした。後年、この列車がかつては「まりも」という列車名で、札幌から先函館まで往復していて、更には一時期釧路から先根室まで足を延ばし、函館~根室間を実にロングランしていて、驚きました。
後に札幌発着に短縮され、昼行部分の函館~札幌間が「ニセコ」となって、C62形蒸気機関車が2両連結で引いていた姿が人気だったことを知りました。
21時半になり、列車がホームを出るのを見届けて、僕もようやく、釧路での最後の床に就きました。悲喜こもごもありましたが、3年になり特に鉄道で楽しいことが続き、相乗効果でクラスや同期たちとも楽しく過ごせ、その思い出を胸に、すっかり眠りに入りました。
  1. 2017/01/09(月) 20:42:27|
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その他もろもろ⑤

初めに、明けましておめでとうございます。
おかげさまをもちまして、このブログも開始から2年になりました。今後とも御指導ごべんたつの程、よろしくお願い申し上げます。

「その他もろもろ」も釧路時代最後になりました。
話はさかのぼって小学校1年の3学期の2月と思いますが、ある土曜日、午前中で学校が終わって帰宅し、午後3時くらいに、父と一緒に会社の人たちと釣りに行きました。
会社のHSさんとその上の息子さん、OTさんがHSさんの運転する車で迎えに来まして、合わせて5人で、釧路町の更に北に接する標茶町にある、今や釧路湿原国立公園と一体を成すかのような、塘路湖に行きました。
冬の厳寒だけに湖面は分厚く結氷していまして、車が氷上にそのまま乗り入れられました。
ドリルで釣り用の穴を開けて、エンジンをかけたままライトを付けて明かりにし、父たちが釣り糸を垂れました。僕はHSさんの息子さんと一緒に釣りの様子を見たり、父たちと交替で車内で暖を取ったりしました。
混雑を避けたのか釣果がいいのか、薄暗くなる4時から始めまして、それこそ暗い中での穴釣りでしたが、釣り客は僕たちだけで、他には若い男性がスケートをしていただけでした。
6時を回って帰宅することになり、トレイを見ると、細くて短い銀色の魚がたくさん釣れまして、父と3人で分けて持ち帰りました。

3年になって最初の始業式の日に、あいさつがてら担任の先生が、冬に氷の上で釣りをした話をしたので、それに乗っかり僕も先の塘路湖での釣りの話をしたところ、1・2年で1組だったKC君が
「その魚、ピカピカしていたろ」
と聞いてきたので、そうと答え、先生の話と相まって、その魚がワカサギと知りました。

再び3年の秋で、クラスで給食での偏食や運動オンチを責められて肩身の狭い思いをしていたころ、学校帰りに、1・2年で同じ5君だった、5組のTB君と一緒になりました。
肩身の狭い思いをしているのを知って、TB君が
「KC君やKK君、うちらと同じクラスだったKN君たちがいじめるから嫌だろう」
と、僕の身を案じてくれました。
TB君はお父さんが国鉄マンで、僕の鉄道好きをよく知っていて、かつ成績優秀スポーツ万能で、クラスでは常にリーダー的存在でした。時に僕の運動オンチ振りをバカにしたこともありましたが、それでも先の肩身の狭い状況を案じてくれて、心が軽くなりました。
  1. 2017/01/08(日) 17:28:09|
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