trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

図書室で保育園時代の本に再会

釧路の小学校よりも蔵書が充実していたのもあって、授業の2限目と3限目の間や給食後の休み時間に図書室に入り浸りましたが、新たに見る鉄道の図鑑にエジソンや野口英世等の伝記、学研刊の「○○のひみつ」シリーズその他に食い入る一方で、北見の保育園時代に親しんだ絵本もあり、懐かしくて見入りました。
「おさるのジョージ」シリーズやかこさとし先生作の「だるまちゃん」シリーズや「こどものカレンダー」等のポピュラーなのもありましたが、そういう中で、鉄道好きの僕が保育園時代に先生に読んでもらったり、自分でも読んだ本がありました。

「おくびょうきかんしゃ」
暗闇等の危険な場所が苦手で「19474」の番号さながらに「いくじなし」のヨーロッパの蒸気機関車が、他の大型機関車の窮地を救い、これまでの悪評を大きく挽回する物語ですが、保育園時代の昼寝の時間前に先生に読んでもらった思い出があり、その後しばらく本書のことを忘れていました。
下級生が目の前で読んでいたので、読み終わってから読み、後日改めて借りようとしましたが、なぜか貸し出し禁止図書になっていて、何とも妙な気分になりました。

「やまのきかんしゃ」
こちらは日本が舞台で、C11や12タイプの小型タンク式蒸気機関車が、大きな駅でD51やC62タイプの大型テンダー式蒸気機関車にバカにされながらも毎日山道のローカル線で客車や貨車を引っ張って頑張っていたのが、ある日そのバカにしていた大型機関車が山道で立ち往生し、その小型機関車が応援で駆け付けてその列車を後押しして無事山を越え、大型機関車たちの賞賛を浴びる物語です。

いずれも当時は物語の内容など知る由もありませんでしたが、振り返ると、いずれも小型で何かしらバカにされていた機関車が、バカにしていた大型機関車の窮地を救って名誉を挽回するという内容で、そのサクセスストーリーさに引かれていたのだと思います。

図書室で再会した後者の「やまのきかんしゃ」を借り、教室に戻ると、何かミーティングをしていて、クラスの人たちが出席番号順に先生に呼ばれて一人一人何か話をしていて、ちょうど戻ってきた僕の番が最後で、何の話かと思ったら、釧路の小学校時代にもあった、居住区域ごとのミーティングの教室を割り当てていたところでした。
ミーティング中に僕がそんなことも知らずに図書室に行っていて、近くの席の人が心配していましたが、そういうことをよそに図書室から教室に戻り、事の次第を知りました。
ミーティングが終わり、それぞれの区域ごとに割り当てられた教室へ行って、冬休みを控えていたので休み中の注意や吹雪等緊急時の集団下校の心得等を担当の先生から説明を受けて、解散し、掃除当番以外の人たちはそのまま直帰しました。

釧路時代の通学区域の割り当ては
「○○分団」
と、あたかも消防団の区域みたいな呼び方でしたが、札幌では単に
「1班、2班…」
と、ごく一般的な番号順の呼び方でした。

ともあれ、釧路時代と同様の、学期半ばや長期休暇前の居住区域別ミーティングは、他のクラスや学年の人たちとも顔を合わせる数少ない機会で、ちょっとした息抜きにもなるひと時でした。
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  1. 2017/05/15(月) 19:20:25|
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初めての列車の旅

本来ならブログ開始のころに書くところでしたが、初めて北見から札幌に行った記憶の陰に隠れて印象が薄く省略したのが、最近になって鮮烈に思い出されてきたので、今ここで書きます。

北見時代の、まだ物心がつく前の2歳のときでしたが、父と2人で、当時本別に住んでいた父方の伯母夫婦のところに初めて行きました。
仕事から帰ってきた父に連れられて、薄暗い夕方6時くらいに北見駅に行き、改札を抜けて跨線橋を渡って、2番線と4番線のホームの南側に当時あった切り欠きホームの3番線に止まっていた国鉄池北線(後にJR→北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線、2006年4月廃止)のディーゼルカーに乗りました。思えばこれが人生初の列車の旅でした。跨線橋を渡る前に改札側の1番線に立ち食いそばがあり、こうこうと明かりが照る店内に眼鏡をかけたおばちゃんが立っていました。きっと駅を利用する通勤通学や旅行客のおなかを以前から満たしていたのでしょう。
暗闇の中、列車は汽笛を鳴らして、一路池北線を南下して池田に向かいました。僕はまだ2歳で、ディーゼルカーに乗った以外は列車がどこ行きとか何駅に止まったことなどわかりませんでしたが、外が真っ暗で車窓から何も見えない中、線路沿いに照らされていた「Fanta」の看板だけがくっきりと見えました。当時は線路や道路沿いに「Fanta」や「Coca-cola」の看板がよく立っていて、テレビCMと併せてすっかり製品名が幼心にも刷り込まれました。
よくわからないまま時間が過ぎて、夜9時前だったと思いますが、十勝管内の本別駅に着き、伯母夫婦の家にお邪魔しました。
夜遅かったので、父は伯父と一杯やり、僕はそれをただぼんやり眺めて、間もなく布団に入りました。伯母が横に来て、子供向けの本を読んでくれました。伯母宅には2人の従兄がいて、その従兄のために買った「ピノキオ」等の世界の童話の本がずらりと並んでいて、伯母夫婦がそのうちの「ピノキオ」を僕にくれました。

翌朝起きて、父と朝ごはんをごちそうになりました。焼いた塩鮭のほぐし身をご飯に乗せてお湯をかけただけの、気持ち薄味のお茶漬けを食べました。自宅ではお茶漬けは「お茶漬け海苔」をかけていただけに、塩鮭とお湯だけのお茶漬けは当時の僕には物足りない気分でしたが、そのシンプルなお茶漬けのおいしさは、大きくなって一人暮らしで自炊して初めて知ることになりました。
朝ごはんが済んで、帰りは伯父が車で北見まで乗せてくれました。車の窓は手動ハンドルで回すのでなく、ボタンを押して電動で開け閉めするタイプで、70年の当時としては実に先進的で度肝を抜かれました。
車は行きに乗った国鉄池北線にほぼ沿うように道路を走り、その両脇は一面の畑や牧場が広がって、昔から続く十勝の農業の広大さが感じられました。
いつしか車は網走管内に入り、林業が盛んな置戸や訓子府らしく木々が目立ちました。池北線の線路が車窓右手に移り、線路の向こうに上常呂駅から引き込み線が通じていた製糖工場と後年知る白い建物の工場が見え、ようやく北見の自宅に帰りました。伯父は隣接する祖父母宅の前に車を止め、祖父母宅にお邪魔してお茶を飲んだり何なりして本別に帰りました。

その後、僕が保育園に入った72年にその本別の上の従兄が、翌73年に下の従兄が北見工業高校に入り、共に祖父母宅に下宿して通いました。従兄2人は妹には優しく僕には少々意地悪いところがありましたが、それでも一緒に遊んでくれました。
その間、伯母夫婦は伯父が勤めていた電電公社の転勤で名寄を経て岩見沢に移り、僕も父の転勤で釧路を経て札幌に移って互いに近くなり、再会することになりました。従兄2人は高校卒業後伯父と同じ電電公社に勤め、共に名寄勤務になりました。
  1. 2017/05/01(月) 10:53:40|
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