trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

札幌への道中

列車自体は3度目でしたが、札幌に向かう際の乗車は夏休み以来約4ヶ月振り2度目の「おおぞら2号」での道中は、季節が秋だったこと以外は夏休みの札幌への旅とほとんど一緒でした。

釧路市内を出て白糠、音別を通過したころ、車内販売のカートが来て、当時テレビで宣伝されていたボトルの「カゴメミカンジュース」を買ってもらい、前の席の背もたれのテーブルを開いてボトルを置き、スクリューキャップを開けてストローを差し、足を組んで少し偉い人になった気分で飲みました。そうそう飲むことがない果汁100%の正真正銘の「ジュース」は、ミカンのおいしさがそっくりそのまま口に広がりました。
車内で家族と話しているうちに、釧路管内から十勝管内に入り、気が付くと、「10ドル」と読めて縁起が良く入場券が人気だった十弗(とおふつ)駅に差し掛かったので、次が池田駅と知っていて、車窓に目を凝らしました。
釧路での柔道で一緒だった他校の先輩に池田町に行った人がいて、駅前の噴水が夜になるとワイン色に変わると話していたのを思い出しました。駅舎に阻まれてその噴水は見えませんでしたが、駅裏のワイン城は何にも阻まれず堂々と見えました。
池田駅を出、故郷北見に通じていた今はなき池北線の線路が北に分かれるのを見届け、次に通過した利別駅は夏休み同様6両編成の滝川発釧路行き客車鈍行がこちらの列車の通過を待っていました。
帯広に着くと、釧路の小学校入学の前後に二度お邪魔した母方の親戚のOCさんに思いが巡りましたが、OCさんは僕たちよりも一足先の10月に札幌に転勤して、もう帯広には誰一人親戚も知人もいませんでした。ホームの向かいには、今はなき士幌線の2両編成のディーゼルカーが止まっていて、車体中央に掛かっていたサボ(サービスボード、行先表示板)には
「帯広ー十勝三股」
と書かれていて、あの十勝三股に行くのかと目を見張りました。
釧路で最後の半年住んでいたマンション時代にNHKの朝の道内のみのリポート番組「北海道の窓」で、士幌線の終点の十勝三股駅前に住む人たちのことが放送されていて、住民が士幌線に乗って帯広方面に行く以外は何を放送していたのかわかりませんでしたが、おそらく駅前の住民が少なくなって過疎化していたという内容だったと思います(事実、翌年それを受けて糠平~十勝三股間がバス代行になりました)。
もう二度と行くことはなかろう帯広を出ると、外は雪が降っていて、もう明日から12月で冬なんだなと実感しました。再び家族と話していると、新得駅に止まり、落合までの当時国鉄最長の駅間区間(28.1km)に入りました。
駅と駅との間がそれだけ長いながら駅が一つもなく、ひたすら無人同然の原野を走りますが、途中列車同士が行き違いをするエリア(信号場)が三ヵ所あり、ちょうど正午を過ぎたころ、そのうちの一ヵ所に止まりました。昼時だったので母と妹とで食堂車に行き、僕はトーストを注文しました。母と妹はサンドイッチだったと思いますが、トーストが来て、添え付けのバターを塗り、焼きたての香ばしさとバターの風味とのコラボレーションを堪能しました。向かいの線路を、函館から来た釧路行き「おおぞら1号」が通過して行きました。夏休みに同じ列車で同じ時間に対向列車の通過を待って食堂車でトーストを食べたことが蘇り、改めて冬も札幌に行くことが実現する喜びを感じました。
再び列車が動き、こちらも食事を終えて席に戻ると、十勝管内から上川管内に入り、落合、幾寅と、今廃止が取り沙汰されている駅を通過しました。幾寅駅はその独特の名前で夏休みに通過したときから印象に残っていましたが、後年映画のロケで有名になるとは…。
こちらも後年ドラマで有名になる富良野駅に止まり、上川管内から空知管内に入り、まだヤマの灯がともっていて駅構内に石炭を積んだ貨車がひしめいていた芦別と赤平を過ぎ、右から函館本線の複線と架線が合流して、滝川に着きました。向かいのホームに当時北海道唯一の電車特急だった札幌~旭川間運転の「いしかり」が止まっていて、目を見張りました。
「いしかり」の存在は、釧路の父の会社向かいの行きつけの寿司屋さんで見た「マガジン」の類の週刊マンガ誌に載っていた、全国の特急列車特集で初めて知りましたが、夏休みに札幌に行ったときは電気機関車にかまけて目が向かず、もう見ることないと思ったら、札幌転勤で見ることになるとは…。
以後は電化区間らしく電車や電気機関車と頻繁にすれ違い、岩見沢を出て操車場と電気機関車の車庫を望み、空知管内から札幌を擁する石狩管内に入り、江別市は野幌の北海道開拓百年記念塔を望み、踏切番が回転ハンドルでワイヤーを操作して遮断機を昇降させる踏切と「ハウスバーモントカレー」の広告看板が掛かる倉庫が見えて、15時15分、ようやく憧れの札幌に着きました。
改札を出て、父の会社の人が迎えに来ていて、車2台に分かれて乗り、父の会社の健保会館に入り、その日はそこで止宿することになりました。

しばらく部屋でくつろぎ、食堂で当時再放送中だった「ひみつのアッコちゃん」を見せてもらいながらみんなで夕食を取り、それから白石区は北郷の伯父宅にお邪魔しました。
釧路で買った「白い恋人」を渡し、テレビを見ながら夏休みにお邪魔したことや釧路でのことをみんなして話し、お茶やココアをごちそうになって健保会館に戻り、翌日に備えてぐっすり眠りました。
  1. 2017/01/17(火) 13:47:34|
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さよなら釧路

釧路最後の登校を終えて住まいを出、旅館での一夜が明けた11月30日水曜日の朝6時、僕はみんなよりも一足早く目が覚めました。窓から釧路駅を見ていて、11月といえどこの時間帯はまだ明るく、6時15分に札幌からの夜行急行「狩勝4号」が着き、それに接続して6時25分発根室行き急行「ノサップ1号」と後続の6時41分発根室行き客車鈍行そして6時31分発の網走行き気動車鈍行が出ていましたが、それらには目も暮れず、6時45分発の函館行き特急「おおぞら1号」の発車を待ち、駅舎左手から列車が出て行くのを見届けて、着替え等支度をしました。
家族全員で1階の食堂に行き、カレー等の一品ものに目が向きましたが、父が
「定食にしなさい」
と言ったので、全員して朝定食を食べました。これまで外食では一品料理ばかり食べていたので、定食は初めてで意外でしたが、ご飯に味噌汁、焼き魚、煮物と、家庭料理そのもので、釧路を離れる緊張感の中で食堂内のテレビの音声を耳にしながら釧路最後の朝食を終え、一旦部屋に戻りました。よくよく思えば、3年前に北見から釧路に来てすぐ泊まった旅館の翌朝の朝食も、先のと同じような定食でした。
僕と父の部屋に母と妹と祖母も集まり、母が
「兄ちゃん、これ」
と言って、青い小袋に入ったお菓子をくれ、開けて食べました。薄く焼いたクッキーに白いクリームみたいなのが挟まれていましたが、今まで食べた中で「ガツン!」とパンチの効いたおいしさが口一杯に広がり、更にもう一枚食べました。このお菓子こそ、今や北海道を代表する銘菓「白い恋人」で、クッキーみたいな生地は「ラングドシャー」といい、それに挟まれた白いクリームみたいなのはホワイトチョコで、今まで食べてきたチョコレート菓子が色あせて見えるほどでした。
身なりを整え荷物を持って旅館を出、目の前の釧路駅に向かうと、父の会社の人たちを始め2年のときまでの同級生の女子TNさんのお母さん、前のマンションのご近所さんたちが見送りに来ていました。
父が会社の人たちと、母がTNさんのお母さんやご近所さんたちと話しながらお互いに別れを惜しみ、全員で改札前の1番ホームに出、僕たち5人は止まっていた函館行き特急「おおぞら2号」に乗りました。列車に乗るとき、横にいた祖母に
「ばあちゃん釧路から札幌に汽車乗るの初めてだよね」
と言いましたが、当然ながら普段北見にいて普通に考えれば札幌に行くなら北見から直行となるところが、引越しの手伝いとは言え祖母が一旦釧路に来てそこから札幌に行くというのが珍しく、印象的でした。
ホーム側の席に全員して座り、集まった人たちが僕たちの席に向かって、父の前途を願う言葉をかけ、最後に全員して
「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」
と転勤等で見送り恒例の万歳三唱をして、9時20分、発車の汽笛と共に思い出多い釧路を後にしました。前年10月に父の上司のMKさん一家が札幌に転勤するときに乗ったのと同じ列車に、今度は僕たちが乗って札幌に向かおうとしていました。そして何より、夏休みに同じ列車で札幌に旅行に行ったのが、今度は旅行でなく釧路には戻らない札幌転勤で、何とも言えない感慨がわき上がりました。
車内放送が流れる中、右手の機関区と客貨車区、新釧路川を渡って南側にサイクリングで2度行った西港臨海公園と北側に十條製紙を望む新富士駅、そして本州製紙と阿寒湖に向かう国道240号線を望む大楽毛駅と、もう二度と見ることはないであろう釧路の風景が川の急流のように過ぎていきました。
  1. 2017/01/13(金) 21:44:47|
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釧路での住まい最後の日

釧路での住まい最後の夜が明けた11月29日の火曜日、僕は妹と釧路での最後の登校をしました。
いつものように朝礼の後授業が始まりまして、この日は体育がなく6時間すべてが教室での授業で、午前中の30分休み後の3時間目から算数や国語等のドリルを各自で解くものだったこともあり、みんなしてドリルを解きながら、一方で僕のために先生や級友たちが折り鶴を折ってくれました。
偏食や運動オンチを責めていた人たちも別れを惜しんで鶴を折ってくれ、特にKC君がたくさん折ってくれたので、先生がKC君が僕を責めていた一人と知っていただけに
「trainrio君、KCが結構折ってくれたんだけどいい?」
と聞いたので
「いやいや、OK」
と言い、KC君にお礼を言いました。
給食を経て、5時間目まで授業がてらみんなが鶴を折ってくれ、先生がまとめて鶴に糸を通して折り鶴の束が完成して、最後の6時間目は通常の、先生の話と板書の授業で、シーンとなりました。
授業がすべて終わり、終礼が始まる直前に母が教室の扉に来て、自宅そばの文房具屋さんで買ってきた、クラスの人数分のノートの束を持ってきたので、それを受け取り、終礼が始まって、先生が僕が札幌に転校することをみんなに伝え、みんなの前で僕から日直のNZ君にお礼のノートの束を渡し、最後にみんなの前で
「どうかお元気で」
とあいさつをして、教室を後にしました。
教室を出る前に、折り鶴ほかKC君や11月初めに大楽毛から転校してきたTN君が、自身の持ち物のシャープペンシルをくれ、また10月に八王子から転校してきたMTさんも
「これあげるね」
と言って、当時グリコのお菓子のキャラクターだった、「キッシーズ」という女の子のキャラクターのソフビのマスコットをくれ、これまでの楽しい思い出が一気に浮かびました。
教室を出ると、今度は先生が
「これ先生からもね、元気で」
と、細長い袋に入った黒いシャープペンシルをくれました。
教室を出てすぐのロビー前の職員室前に母と妹がいて、母が妹の担任のYJ先生と僕の2年までの担任だったST先生にもあいさつをしたようで、最後に僕の最後の担任のST先生にもあいさつをして、帰宅しました。

帰宅すると、最後のあいさつに1年のときからずっと同じクラスだったTB君とYZ君が来ていて、最後の荷物整理をしながら3人してバカを言い合い、また1年からの思い出話を母も交えてしながら、残り少ない釧路での住まいのひとときを過ごし、最後に二人が車か飛行機のプラモデルをプレゼントしてくれました。
TB君は、1年の入学時から同じクラスで、そのころから友人の少ない僕のところに遊びに来てくれました。母も
「いい子だったよね」
と後年になっても評していたほどでした。一方、YZ君は、1年の2学期が始まって市内の清明小学校から転校してきて、僕と同じ区域内に住んでいて、僕の前のマンションで先生を交えての懇談会があったとき、お父さんがよく来ていました。
3年のクラス替えで別れ別れになるかと思いましたが、幸いにも3人してまた同じクラスになり、しかも最後の別れに3人して揃い、高揚感はマックスでした。
荷物の整理も済んで後は引越業者に任せ、二人に別れを告げて、僕は母と妹、祖母で半年住んだマンションを後にしました。

バスで釧路駅前の、当時の金市舘デパートの二軒左にあった、父から事前に知らされていた「乙女屋旅館」というホテルに、会社から直接来た父と合流し、チェックインしました。部屋は3つに分かれて、僕は父と、妹は母と、それぞれ一緒の部屋で、祖母だけが単独でした。
部屋で上着を脱ぎ手荷物を置き、しばらくテレビを見たりして、祖母と父はホテルに残り、僕と母と妹とで、駅地下のステーションデパートの食堂に行きました。
食堂で僕はこの年初めて食べてえらく好きになったカツカレーを注文し、母と妹もそれぞれメニューを注文し、母と妹のが先に来て食事にありつきました。
ちょうど時刻が18時55分ほどで、19時00分に小樽行きの寝台付き夜行普通列車「からまつ」が発車するので、1階の改札に上がって、スピーカーから、空洞内で鳴るようなくぐもった発車ベルの音声が流れ終わり、ディーゼル機関車の汽笛が鳴って列車がホームを出るのを見届けて、地下の食堂に戻ると、母が
「兄ちゃん、カレー来てるよ」
と言っていて、僕が戻る少し前にカツカレーがテーブルの上に出されていました。
母と妹は既に食べ終わっていたので、急いでカレーを掻き込み、19時20分ごろに食べ終えて旅館に戻りました。
部屋に戻ると、父がベッドに入っていて、テレビでNHKのニュースを見ていました。ニュースは19時半までで、その後HBCテレビで「ぴったしカンカン」が始まるので、父にお願いしてチャンネルを変えて見ました。
「ぴったしカンカン」は、小学校1年の75年10月から始まっていて、ほぼ毎週のように見ていました。北見時代に始まっていながら当時は見なかった同じ火曜日の19時00分からの日テレ系「スターアクション」と共に、釧路時代思い出のテレビ番組でしたが、釧路での最後の夜に本番組を見るとは思いもよらず、同時に釧路での日々が走馬灯のように浮かび流れました。
番組が終わると父がNHKに替え、僕も一緒になって見ました。
20時45分のニュースが終わるとテレビを消して父は寝ましたが、僕は部屋の窓から釧路駅の右横にかろうじて見えていた、1番ホームの夜行急行「狩勝3号」を、発車まで見ていました。
小学校に入ってから部屋の時刻表で列車の存在は知っていて、釧路を夜出て翌朝札幌に着くのも知っていましたが、ちょうど駅横に見えていた車両が寝台車で、夏休みに札幌から北見まで寝台車に乗ったことが思い出されました。
「狩勝3号」はまた、僕の小学校1・2年の同級生に乗った人がいて、バイオリンが特技のWT君が1年のGWに青森に行ったときに往復で、3年になって3組になったYM君も6月に僕より先に札幌に転校したときに乗った列車でした。後年、この列車がかつては「まりも」という列車名で、札幌から先函館まで往復していて、更には一時期釧路から先根室まで足を延ばし、函館~根室間を実にロングランしていて、驚きました。
後に札幌発着に短縮され、昼行部分の函館~札幌間が「ニセコ」となって、C62形蒸気機関車が2両連結で引いていた姿が人気だったことを知りました。
21時半になり、列車がホームを出るのを見届けて、僕もようやく、釧路での最後の床に就きました。悲喜こもごもありましたが、3年になり特に鉄道で楽しいことが続き、相乗効果でクラスや同期たちとも楽しく過ごせ、その思い出を胸に、すっかり眠りに入りました。
  1. 2017/01/09(月) 20:42:27|
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釧路時代にテレビで見た鉄道

入学して給食の好き嫌いと運動オンチによる不適応で始まりながらも、市内や近辺に鉄道スポットを見付けて図々しくも生き生きとして来た釧路の小学校時代も終わりに近付きましたが、釧路時代はリアルのみならずテレビ番組でも鉄道をよく見ました。
小学校1年の75年10月にNHKの「ほっかいどう7:30」という道内のみの紀行番組で漫画家の加藤芳郎さんと歌手の山口百恵さんが室蘭本線のSL列車に乗ったり、小学校3年の77年6月には同じ番組で釧路臨港鉄道が取り上げられて積み出し駅から港の降ろし場までの石炭列車の走行シーン、同年同月のTBS系「世界のこどもたち」で鉄道模型製作を手伝う子供たちを見ましたが、それ以外にも見た鉄道の番組がありました。

小学校2年の76年10月だったと思いますが、NHK総合の日曜午前11時35分からの20分番組に「海外リポート」というのがありました。
いつもならこの時間は日テレ系の当時大人気のオーディション番組「スター誕生!」を見ていましたが、父が時々チャンネルを変える癖があり、ちょうどそのときもNHK見たさにチャンネルを変えて、当番組が放送されていました。
タイの国が紹介され、初めに首都バンコクや他の都市や農村の風景が映し出されていて、それだけならつまらないところでしたが、場面が変わり、タイの鉄道の絶景と言われる、崖っぷちに造られた木造橋の上を、ディーゼル機関車が引く列車が走っていて、思わず目を見張りました。
箱型の機関車に有蓋車・タンク車・無蓋車が各2~3両ずつ連なり、最後尾に客車が4両という混合列車だったのでなおさら画面にくぎ付けになりました。翌月父が買ってきてくれた鉄道の図鑑にこのタイのディーゼル機関車が載っていて、同じく掲載されていた日本の国鉄のDD54形という同じ箱型のディーゼル機関車とどことなく似ていたので「あれ?」と思いましたが、両方ともドイツの技術を導入して造られたということで、納得しました。

小学校3年の77年10月には、同じくNHKで火曜夜7:30に放送されていた「NHK特派員報告」という、文字通りNHKの海外特派員が滞在地の出来事を通常のニュースよりも深く詳しく報告する番組があって、こちらは事前の番宣で知っていたので、いつもならTBS系の「ぴったしカンカン」を見るところをNHKにチャンネルを合わせました。
この回は、ヨーロッパに旅行に行った日本人女性が行方不明になり、捜索したところ鉄道の線路沿いに遺体で発見されたというもので、女性が国際列車に乗り、トイレに行く際に扉を開けたところ間違えてトイレでなく車外で、誤って転落して頭を打ち付けたか何かで亡くなったようでした。
ヨーロッパの鉄道車両は、内側に開く日本の客車と違って、扉が外側に開く構造で、海外のガイドブックの中には、転落する危険があると注意書きがあるほどでした。
弟さんが、女性が倒れていた線路際まで行き、涙を流しながら花束を添えていたのを見て、それまで見ていた鉄道の番組と違い、胸を締め付けられました。
この「特派員報告」を見た感想を自主的にノートに書いて家庭学習として翌日先生に出すと
「随分難しい番組を見ているんですね」
とコメントが書かれていました。普通家庭学習というと、算数の計算や漢字の書き取りくらいなだけに、作文、それもNHKのドキュメント番組の感想文で担任も驚いたようでした。

同じく77年でこちらは9月か10月でしたが、NHKで当時月曜夜8時台に放送されていた紀行番組「新日本紀行」で、江ノ島電鉄(江ノ電)のことが放送されていました。
いつもならこの時間は日テレ系の「紅白歌のベストテン」かテレ朝系の「みごろ食べごろ笑いごろ」を見ていたのが、こちらも事前に番宣で知っていてチャンネルを合わせました。
神奈川県鎌倉市と藤沢市を結ぶ私鉄で、当時の社会の教科書の表紙が鎌倉駅の写真だったので一層親近感がわきました。会社名の由来の江ノ島や沿線の七里ヶ浜の地名が印象に残りましたが、北海道に住んでいただけに、鎌倉や藤沢に後年思わぬご縁があることなど知る由もありませんでした。
  1. 2016/12/21(水) 19:01:08|
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話はさかのぼって…

僕が小学校1年の10月中旬くらいだったと思いますが、NHKで道内だけで毎週夜7時半から放送されていた道内紀行やドキュメント番組「ほっかいどう7:30」で、室蘭本線で室蘭から岩見沢に向かう蒸気機関車けん引の客車列車に乗って旅をする企画がありました。
これだけなら他の紀行番組と大差ありませんが、リポーターが同じNHKの人気ゲーム番組「連想ゲーム」の白組キャプテンでおなじみだった漫画家・加藤芳郎さんと、当時桜田淳子さん森昌子さんと並んで「三人娘」と称された人気アイドル・山口百恵さんという異色の組み合わせで、特に当時16歳の百恵ちゃんが一見縁のなさそうなSL列車に乗るというのが強く印象に残りました。
列車は汽笛一声室蘭を出まして、岩見沢までひたすら走りましたが、圧巻だったのは、蒸気機関車の運転台右側下の動輪近くに小型カメラを取り付け、複線の室蘭本線の対向列車も道中映し出していたことでした。線路近くから見上げるようにして映し出された対向列車は、あたかも小人がガリバーを見上げるかのようで、カメラのすぐ前で大きな動輪が力強く回るのと相まって大迫力でした。
室蘭本線は長万部(室蘭)~東室蘭~岩見沢を結ぶ路線で道内の貨物列車の重要経路で、当時主流の黒一色の一般貨物列車や後に主流となるコンテナ列車、まだ炭鉱が元気だった時代らしく岩見沢や夕張方面から苫小牧や室蘭に向かう石炭列車と頻繁にすれ違いました。また同じSL列車やディーゼル機関車けん引の客車列車、ディーゼルカーの普通列車ともすれ違いました。
更に苫小牧までは、そこから分岐する千歳線に直通するディーゼル特急や急行ともすれ違い、特に特急が映ったときは、北見時代に初めて札幌に行った帰りに特急「おおとり」に乗り、食堂車に入ったことが思い出されました。

その後、他の鉄道のことにかまけて加藤さんと百恵ちゃんのSL列車乗車記のことなどほとんど記憶にありませんでしたが、30年近くして鉄道雑誌でこの番組のことが文面に載っていて、記憶が蘇りました。

アイドルと鉄道、一見似合わなさそうな取り合わせでしたが、その後百恵ちゃんは鉄道と旅をテーマにした曲で大ヒットを飛ばすことになります。
  1. 2016/07/15(金) 19:10:35|
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