trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

本格的な札幌での学校生活の始まり

祖母が北見に帰り、引越しも落ち着いた12月5日の月曜日、本格的に札幌での学校生活が始まりました。
算数が2学期は「重さ」で終わりで、釧路での2学期の算数が「重さ」で始まっていて、同じ単元をダブって習ったのが意外でしたが、国語でも転校前に習い終えた「おいしいパンはいつできる」という物語を習っていて、前に習い終えただけに内容がすぐわかりました。
おじさんがおおかみに小麦の種まきから収穫・製粉・パン生地こね・発酵そして焼き上がりまでのプロセスを説明するもので、特に小麦の生育期に冬に枯れないように、わざと足で踏んで小麦を強くする「麦踏み」のところでおおかみが
「パンを足で踏むの?」
とおじさんに聞いた場面は、「言われてみれば」と思いクスリとなりました。
まだ種まきや生育、収穫の段階で、食いしん坊らしくおおかみが
「それでパンが食べられるの?」
と聞く度におじさんに
「まだ早い」
と制されていて、早くパンが食べたそうな表情になり、ようやく製粉から生地を作って発酵した段階で
「いよいよ焼き上げに入る」
と説明しておおかみを徐々に安心させ、パンが完成しておおかみもやっと食べられる次元に来てさぞ満足かと思いきや、おおかみが
「そんな苦労して作るパンなど食べたくないや」
と文句を言い、おじさんに
「食べ物が口に入るまでには、いろんな人たちの汗がこもっているんだ」
と優しく諭される内容で、釧路でパン工場を見学した程度の僕もパン作りの過程が詳しくわかり、認識を新たにしました。思えば自宅でも母が小麦粉とベーキングパウダーと卵で生地をこねてパンやマドレーヌを作っていましたが、原料の小麦の栽培までわかり、まさに今はやりの「食育」でした。

理科の時間には、教室で硼酸をビーカーの水に溶かしてあまり溶けず、アルコールランプでビーカーを熱するとよりたくさんの硼酸が溶け、火を止めて溶液が冷めるに連れて硼酸の結晶が現れる実験をしまして、釧路では一度も火を使う実験をしなかっただけに
「うるさい」
と注意されたくらいに興奮しましたが、水に溶けなかった物質が湯に溶け、その湯が冷めて物質が結晶となって水中に現れたのには目を見張りました。これまでの理科の実習は、植物の種を割って中を見たり、花や温度の観察や磁石、水を掛けて水車を回すといった、それほど危険を伴わないものだっただけに、火や薬品を使う実験がこれから増えると思うと、ワクワクしてきました。

算数同様釧路とは教科書が違う札幌で初めての図工の時間に、空き箱等身近なものを使って何かを作ることをしました。材料を忘れて仕方なく画用紙をもらって作った人もいましたが、僕は前日に言われた通りに自宅からチーズやバターの空き箱・ヨーグルトのカップ・割り箸・輪ゴム・糸巻きを持って来て、空き箱で車を、カップで車に引かせるトレーラーを作り、糸巻きを車輪にし、糸巻きの穴に輪ゴムを通して糸巻きを回して輪ゴムをよじり、離すと輪ゴムが元に戻る力で糸巻きの車輪が回って車が走るようにしました。
図工は得意ではないながらも、何か動く小さな乗り物が作りたくなり、汽車ポッポを彷彿させる、車に小さな荷車を引かせるものを想像して作りました。
出来上がったみんなの作品を教室後方の棚に並べ、うまく走らなかったものの先生が僕の作品を
「まあまあだな」
と評してくれて、後ろの席のKB君に
「良かったね」
と言われ、うれしくなりました。
  1. 2017/03/06(月) 20:09:24|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

帯広の伯母との再会

日付や状況がうろ覚えで正確さは保証できませんが、お邪魔したのは確かで、休み等の兼ね合いでしっくりするので、文中の日付にしておきます。

77年12月2日の札幌での初登校から帰宅すると、母が
「帯広にいたOCさんのところに行くよ」
というので、母と祖母と妹の4人で、僕たちよりも一足先に帯広から札幌に引っ越した、伯母OCさんの家にお邪魔しました。
当時はまだ地下鉄が北24条までで、新琴似にいる僕たちは新琴似小学校向かいの新琴似神社そばのバス停から札幌駅前行きのバスに乗って、地下鉄の北18条駅と北海道大学に近い伯母宅に着きました。一軒家の借家でしたが、周囲に木々があり、あたかも持ち家かのような洋風の家でした。
伯母は帯広時代はほぼ毎年北見に行っていたようで祖母もその度に会っていましたが、僕と母と妹は2年振りの再会で、釧路時代に帯広にお邪魔したことや夏休みに札幌と北見、秋に再び北見に行った話で盛り上がりました。従姉のYKさんも現れ、夕食をごちそうになっていると、ご主人が帰宅し、盛り上がりは更に増しました。
夜も遅くなったので、母と祖母はバスで帰宅しましたが、僕と妹は翌日開校記念日でお休みで、2年振りの再会ということもあり、せっかくだからということで泊まっていきました。
YKさんの部屋に入ると受験を控えて勉強していましたが、勉強しながら話をしてくれました。振ると赤ちゃんのガラガラみたいに鳴る陶器のおもちゃがあり、絵柄を見ると、何か特徴のある人の絵と思ったら、吹き出しに
「やなせたかし」
とあったので、納得しました。妹が買って読んでいた「小学一年生」のマンガや釧路の小学校2年のときの読み聞かせ会で読んでもらった「あんぱんまん」で氏の作品は見ていましたが、「ガラガラ」みたいなおもちゃの絵も描いていたのに驚きもし、喜びもしました。

一夜明けて開校記念日でお休みの12月3日を迎え、朝ごはんをごちそうになりご主人とYKさん、そして従兄のTMさんが出勤や登校すると、僕と妹は伯母に、YKさんが小さいときに読んでいた本を見せてくれました。
「キンダーブック」やかこさとし先生作の「こどものカレンダー」等、北見の保育園時代や釧路の図書館バスで借りて読んだ本がたくさんあって、むさぼるように読みました。
昼過ぎになるとお昼ご飯を軽くごちそうになったほか、裏の庭に植えていたイチゴを一緒に採って、食べさせてくれました。今までスーパーで買ったのを食べたことしかなかっただけに、雪に埋もれた中で採ったイチゴの味は、多少未熟で緑がかったところこそあれ、格別でした。
夕方になると、夕食にハンバーグを作ってくれました。手作りなだけでなく鉄板で焼き、その鉄板を専用の木の板に載せただけに、普通に焼いて皿に載せるのと違い熱々で、おいしさが段違いで、あたかも高級レストランの味かのようでした。
夕食も終え、妹と一緒に帰ることになり、最寄のバス停から石狩町の花川方面に向かうバスに、伯母に見送られて乗りました。通常なら前と中に扉がある車両のはずが、長距離向けに前扉のみでリクライニングシートの車両で、ちょっとした旅行気分でした。
伯母から電話で聞いたようで、新琴似小学校前のバス停で降りると、母が迎えに来ていました。前日に積もった雪道を歩いて帰宅し、土曜日だったので「ジャッカー電撃隊」と「全員集合」を見て、翌日祖母を見送るのに備えて眠りに就きました。
  1. 2017/02/21(火) 18:29:16|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

札幌での初登校

札幌は新琴似の新居初日が明けて12月2日の金曜日になり、父も札幌の職場へ初出勤し、続いて僕と妹が母と一緒に自宅近くの新琴似小学校に向かいました。前日母が北区役所へ転入手続きに行った際に学校のことも確認して、僕と妹の通学先が新琴似小学校なのを確認し、明けて当日登校しました。
前日と打って変わり、雪が降っていて、道は一面真っ白でした。学校に着くとまず職員室に入り、少しして、僕の担任のTN先生が来て、3年1組に編入しました。妹は1年1組で担任はTM先生になり、それぞれの教室に向かいました。
教室に向かうとき、校舎が釧路時代の鉄筋コンクリートでなく木造モルタルだったので、TN先生に
「いつ頃開校したんですか?」
と聞くと
「明治時代だよ」
と答えたので、びっくりしました。ちょうどその年、学校は開校90周年で、転入前に全校挙げて記念行事があったようで、妹の学年のSB先生により記念の曲が作られたほどでした。
緊張の中、教室に入ると、クラスの人たちがみんなしてわあわあ驚いて、何より僕が太っていて体が大きかったので、より一層騒ぎました。
学級代表のHY君とSKさんが前に出て朝礼が始まり、諸連絡の後自己紹介をし、自分の名前と釧路から来たことを話しました。
体が大きかったので、男子の一人が
「野球はするのか」
と聞いたので
「いいえ」
と返すと
「ダメだ、野球やれ」
と言ったので、クラスで大笑いしました。
やんややんやの喝采で朝礼と自己紹介が終わり、席に着いて授業に入りました。
僕の席は、右隣にCK君、前左にNEさん、前右にTG君、後ろ左にクラスのリーダー格で僕に「野球やれ」と言ったOB君、後ろ右にKB君がいました。算数の授業で「重さ」をやりましたが、釧路では「重さ」は2学期の頭に習ったのでダブって習うことになりました。
聞けば、教科書は札幌では算数と図画工作だけ違って、他は釧路と同じでした。また社会科では教科書以外に、釧路での「くしろ」に相当する「さっぽろの歩み」の「歴史編」と「地理編」の2冊と、地元新琴似のことを学ぶ「新琴似のあゆみ」という副教材を3・4年の2年間で学習することになっていました。
2時間目と3時間目の間の30分休みに、OB君始めクラスの人たちが僕に校内を案内してくれました。他の学年の教室やら音楽室、理科室、調理室に続いて図書室に入り、大好きな鉄道の本をむさぼるように読むとみんなが驚き、先生に話すと先生も驚きました。図書室には他にエジソンや野口英世等の伝記の本もありましたが、前の釧路の学校の図書室は伝記の本がとても少なく、一度国語の授業で図書室で伝記の本を各自で借りて読んだときに、僕を含めて大多数が伝記の本を借りられず、やむなく鎌倉時代の歴史の本を借りて理解に苦しんだ思い出があっただけに、伝記の蔵書の多さに驚きもし、喜びもしました。
4時間目が終わり給食に入ると、その日は煮込みうどんが出ました。他校から運んでくるのでなしに自校で作るだけに温かさが段違いな上、釧路で食べた煮込みうどんに比べ味が濃い気がしました。
給食後の休憩時にもOB君たちが校内を案内してくれ、5・6時間目の授業が済んで終礼の後、教室の掃除を教えてもらって、帰宅しました。緊張で始まった札幌の学校での初日でしたが、旅行と違って生活そして通学するだけに、見るもの聞くもの一時的に滞在するのとは違った新鮮さがあり、この後どれだけ僕の好奇心が刺激されることか計り知れませんでした。
  1. 2017/02/05(日) 18:41:10|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

札幌暮らしの始まり

父の会社の健保会館での一夜が明けてちょうど12月1日で冬に入り、朝食を済ませて朝9時くらいにチェックアウトして、迎えに来てくれた会社の車で、新居に向かいました。
どんなところかなと、車内でワクワクしましたが、着いたところは、北区の新琴似という場所で、二階建てマンションの一階で、マンションすぐ横の道路をまっすぐ5分くらい歩くと、国鉄札沼線の新琴似駅にぶつかる、鉄道好きの僕には実に好立地な住まいでした。
ちょうどトラックが着いて、作業員さんたちと一緒に荷物を部屋に運び、ある程度整理して、空いたスペースにみんなして輪になって座り、父たちはビールを、僕と妹はソフトドリンクでお菓子やおつまみを食べながら話しました。
父たちもビールが回ってにぎやかになったころ、前年に同じ「おおぞら2号」で札幌に転勤した、MKさんがあいさつに来ました。同じ北区に住んでいたので、父には一層心強かったと思います。
会社の人たちが帰って、再び荷物を整理し、5人なのでまだ明るいうちに片付いて、すぐ寝られる状態になったところで、僕は新琴似駅がどんなところか見たくて、家族に一声かけて駅まで行きました。
駅から近いところに住むのは、北見時代以来でしたが、新琴似駅は当時は木造モルタルの平屋で、駅舎は線路の向こうの麻生側にあり、踏切を渡って行かなくてはなりませんでした。今のように線路沿いに柵がなく、自宅側の島式ホームに外から入れて、周囲を見回しましたが、駅舎側のホームを歩いていた駅員にたしなめられたので、ホームを出て帰宅しました。
それから祖母に留守番を頼んで、線路を渡ってすぐのところにある、「ニトリ家具」という家具店に4人して行きました。
せっかく札幌に来て比較的広い部屋なので、ダイニングテーブルを買いたかったようで、木製の4人掛けのテーブルを買いました。帰宅して、トラックでテーブルが届き、椅子を置いて添付のネジでテーブルを組み立て、まさに心機一転のスタートになりました。

「ニトリ家具」、買いに行った店は麻生店で、当時の本社は中央区であり、札幌市内のみの展開でしたが、今や「ニトリ」として全道から日本全国そして海外にも展開し、その麻生店が今や本社になるなど当時は想像もしませんでした。
  1. 2017/01/19(木) 13:32:09|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

その他もろもろ⑤

初めに、明けましておめでとうございます。
おかげさまをもちまして、このブログも開始から2年になりました。今後とも御指導ごべんたつの程、よろしくお願い申し上げます。

「その他もろもろ」も釧路時代最後になりました。
話はさかのぼって小学校1年の3学期の2月と思いますが、ある土曜日、午前中で学校が終わって帰宅し、午後3時くらいに、父と一緒に会社の人たちと釣りに行きました。
会社のHSさんとその上の息子さん、OTさんがHSさんの運転する車で迎えに来まして、合わせて5人で、釧路町の更に北に接する標茶町にある、今や釧路湿原国立公園と一体を成すかのような、塘路湖に行きました。
冬の厳寒だけに湖面は分厚く結氷していまして、車が氷上にそのまま乗り入れられました。
ドリルで釣り用の穴を開けて、エンジンをかけたままライトを付けて明かりにし、父たちが釣り糸を垂れました。僕はHSさんの息子さんと一緒に釣りの様子を見たり、父たちと交替で車内で暖を取ったりしました。
混雑を避けたのか釣果がいいのか、薄暗くなる4時から始めまして、それこそ暗い中での穴釣りでしたが、釣り客は僕たちだけで、他には若い男性がスケートをしていただけでした。
6時を回って帰宅することになり、トレイを見ると、細くて短い銀色の魚がたくさん釣れまして、父と3人で分けて持ち帰りました。

3年になって最初の始業式の日に、あいさつがてら担任の先生が、冬に氷の上で釣りをした話をしたので、それに乗っかり僕も先の塘路湖での釣りの話をしたところ、1・2年で1組だったKC君が
「その魚、ピカピカしていたろ」
と聞いてきたので、そうと答え、先生の話と相まって、その魚がワカサギと知りました。

再び3年の秋で、クラスで給食での偏食や運動オンチを責められて肩身の狭い思いをしていたころ、学校帰りに、1・2年で同じ5君だった、5組のTB君と一緒になりました。
肩身の狭い思いをしているのを知って、TB君が
「KC君やKK君、うちらと同じクラスだったKN君たちがいじめるから嫌だろう」
と、僕の身を案じてくれました。
TB君はお父さんが国鉄マンで、僕の鉄道好きをよく知っていて、かつ成績優秀スポーツ万能で、クラスでは常にリーダー的存在でした。時に僕の運動オンチ振りをバカにしたこともありましたが、それでも先の肩身の狭い状況を案じてくれて、心が軽くなりました。
  1. 2017/01/08(日) 17:28:09|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
前のページ 次のページ