trainrioの世界

鉄道ファンの私、trainrioが、独自の鉄道趣味の世界を書いてゆきます。

岩見沢の伯母宅へ②

一夜明けて12月11日の日曜になり、伯母宅そばの国道12号線を頻繁に通過する車の音を聴きながら目が覚め、朝ごはんをごちそうになりました。
その後、いつもならNHKの朝8時からの「スタジオからこんにちは」、HBCで8時半からのHBC「時事放談」、9時からの「兼高かおる世界の旅」、9時半からの道内レポート番組「ほっかいどう」、10時からの「世界のこどもたち」、そしてSTV11時からの「スター誕生!」と家族して午前中はテレビ漬けになるところが、久々に伯母宅にお邪魔しただけに、テレビも付けず伯父たち共々昨日に続いて北見での話で盛り上がりました。
話をしているうちに、壁に貼られていた岩見沢駅の時刻表に目が留まり、同じ函館本線の道央圏だけに札幌駅同様列車本数が多く、最終列車の到着が23時57分と日付が変わる寸前で驚きました。加えて室蘭本線・幌内線・万字線の時刻も載っていて、くぎ付けになりました。
伯父がその様子を見て僕に
「北見に行く列車とその時刻を教えて」
と言ったので、時刻表を上から順に見て、到着駅とその時刻の欄に
「網走○○:○○」
と書いてある列車の発車時刻を教えました。当時岩見沢から北見に向かう列車というと、札幌~網走間の特急「オホーツク」1往復と急行「大雪」が昼行2往復(うち1往復は網走から先釧路まで往復)夜行1往復、函館~網走間の特急「おおとり」1往復の計5往復でした。
伯父たちと話をしながら時刻表に見入っていると、ほかに名寄行き急行「なよろ」、また同じ札幌発着の「大雪」でも遠軽から先は北見や網走と反対に名寄本線を北上して下り興部着・上り名寄発(つまり下りは札幌→遠軽→紋別→興部、上りは名寄→興部→紋別→遠軽→札幌)という列車があるのを知り、前週日曜日に知った稚内や留萌方面への列車と共に、つくづく札幌や岩見沢といった道央圏は道内各地からの列車が集まっていると驚きました。
伯母が作ってくれた昼ごはんをごちそうになり、おいとましてバスで岩見沢駅に行き、行きのディーゼルカーですれ違った赤い電車の各駅停車で帰宅しました。夏休みに乗った電気機関車の引く客車急行に続いて、今度は国鉄電車の各駅停車に初めて乗り、札幌の地下鉄と併せてこの年は僕にとって鉄道電気車両「デビュー」の年になりました。
  1. 2017/03/17(金) 16:30:35|
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岩見沢の伯母宅へ①

札幌での本格的な学校生活が始まって1週間になる12月10日の土曜日、家族4人して岩見沢の父方の伯母夫婦のところに行きました。北見時代の2歳のときに父と一緒に本別時代の伯母宅に行きましたが、その年岩見沢に移り、僕たちも札幌に移って互いに近くなったので、お邪魔することにしました。
数日前に音楽のペーパー試験があって土曜日にその答案が返って来て恥ずかしい点数で、父に注意されましたが、その後そんな苦いことも互いに忘れて、札幌駅に向かい、14時半くらい発の岩見沢行きディーゼルカーに乗りました。
土曜日ということもあってか、車内は満員で立ち客が大勢いました。母がキオスクで当時発売され始めて人気だったアメリカ発の棒付き球状キャンディ「チュッパチャプス」を買ってくれて、妹と車内で食べました。その棒が管状になっていて、それをストローにして同じくキオスクで買ってくれたヤクルトを飲むと、母と妹が
「頭いい!」
と驚きました。ちょうど野幌か幌向辺りで上りの普通電車とすれ違いましたが、北海道で唯一の一般型電車で、帰りはその電車で帰れたらと思いました。
岩見沢駅に着き、路線バスでようやく伯母宅に着きました。伯母宅は国道12号線沿いの電電公社の官舎で、木造モルタル平屋建てでした。
伯母夫婦は本別の後、名寄に移り、それから岩見沢に移りましたが、本別時代に息子さん(従兄)2人が北見工業高校に入り北見の祖父母のところに下宿して通学し、その間に伯母夫婦が名寄に転勤、その後従兄が高校卒業して共に電電公社に入り、兄弟して名寄勤務になって再び家族して暮らし、今度は伯父の岩見沢転勤で再び従兄たちと離れました。
名寄時代の伯母のところには僕も妹も両親も一度も行きませんでしたが、僕の北見時代に従兄たちの様子見を兼ねて祖父母宅に時々夫婦して来ていましたし、前年の一番下の叔母の結婚式のときにも再会しました。
本別以来7年振りに伯母宅にお邪魔すると、両親たちと北見時代の話で盛り上がり、ビールが入って盛り上がりに拍車がかかりました。伯父とは本別にお邪魔した話でも盛り上がり、その本別時代に従兄のために買った童話の本の中から「ピノキオ」をいただき、ずっと読んできたことを話すと、伯父が「ピノキオ」の、本に書いてないことまで詳しく話してくれました。北見や本別の話で盛り上がり、その楽しさを胸に、床に就きました。
  1. 2017/03/10(金) 21:13:33|
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本格的な札幌での学校生活の始まり

祖母が北見に帰り、引越しも落ち着いた12月5日の月曜日、本格的に札幌での学校生活が始まりました。
算数が2学期は「重さ」で終わりで、釧路での2学期の算数が「重さ」で始まっていて、同じ単元をダブって習ったのが意外でしたが、国語でも転校前に習い終えた「おいしいパンはいつできる」という物語を習っていて、前に習い終えただけに内容がすぐわかりました。
おじさんがおおかみに小麦の種まきから収穫・製粉・パン生地こね・発酵そして焼き上がりまでのプロセスを説明するもので、特に小麦の生育期に冬に枯れないように、わざと足で踏んで小麦を強くする「麦踏み」のところでおおかみが
「パンを足で踏むの?」
とおじさんに聞いた場面は、「言われてみれば」と思いクスリとなりました。
まだ種まきや生育、収穫の段階で、食いしん坊らしくおおかみが
「それでパンが食べられるの?」
と聞く度におじさんに
「まだ早い」
と制されていて、早くパンが食べたそうな表情になり、ようやく製粉から生地を作って発酵した段階で
「いよいよ焼き上げに入る」
と説明しておおかみを徐々に安心させ、パンが完成しておおかみもやっと食べられる次元に来てさぞ満足かと思いきや、おおかみが
「そんな苦労して作るパンなど食べたくないや」
と文句を言い、おじさんに
「食べ物が口に入るまでには、いろんな人たちの汗がこもっているんだ」
と優しく諭される内容で、釧路でパン工場を見学した程度の僕もパン作りの過程が詳しくわかり、認識を新たにしました。思えば自宅でも母が小麦粉とベーキングパウダーと卵で生地をこねてパンやマドレーヌを作っていましたが、原料の小麦の栽培までわかり、まさに今はやりの「食育」でした。

理科の時間には、教室で硼酸をビーカーの水に溶かしてあまり溶けず、アルコールランプでビーカーを熱するとよりたくさんの硼酸が溶け、火を止めて溶液が冷めるに連れて硼酸の結晶が現れる実験をしまして、釧路では一度も火を使う実験をしなかっただけに
「うるさい」
と注意されたくらいに興奮しましたが、水に溶けなかった物質が湯に溶け、その湯が冷めて物質が結晶となって水中に現れたのには目を見張りました。これまでの理科の実習は、植物の種を割って中を見たり、花や温度の観察や磁石、水を掛けて水車を回すといった、それほど危険を伴わないものだっただけに、火や薬品を使う実験がこれから増えると思うと、ワクワクしてきました。

算数同様釧路とは教科書が違う札幌で初めての図工の時間に、空き箱等身近なものを使って何かを作ることをしました。材料を忘れて仕方なく画用紙をもらって作った人もいましたが、僕は前日に言われた通りに自宅からチーズやバターの空き箱・ヨーグルトのカップ・割り箸・輪ゴム・糸巻きを持って来て、空き箱で車を、カップで車に引かせるトレーラーを作り、糸巻きを車輪にし、糸巻きの穴に輪ゴムを通して糸巻きを回して輪ゴムをよじり、離すと輪ゴムが元に戻る力で糸巻きの車輪が回って車が走るようにしました。
図工は得意ではないながらも、何か動く小さな乗り物が作りたくなり、汽車ポッポを彷彿させる、車に小さな荷車を引かせるものを想像して作りました。
出来上がったみんなの作品を教室後方の棚に並べ、うまく走らなかったものの先生が僕の作品を
「まあまあだな」
と評してくれて、後ろの席のKB君に
「良かったね」
と言われ、うれしくなりました。
  1. 2017/03/06(月) 20:09:24|
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帯広の伯母との再会

日付や状況がうろ覚えで正確さは保証できませんが、お邪魔したのは確かで、休み等の兼ね合いでしっくりするので、文中の日付にしておきます。

77年12月2日の札幌での初登校から帰宅すると、母が
「帯広にいたOCさんのところに行くよ」
というので、母と祖母と妹の4人で、僕たちよりも一足先に帯広から札幌に引っ越した、伯母OCさんの家にお邪魔しました。
当時はまだ地下鉄が北24条までで、新琴似にいる僕たちは新琴似小学校向かいの新琴似神社そばのバス停から札幌駅前行きのバスに乗って、地下鉄の北18条駅と北海道大学に近い伯母宅に着きました。一軒家の借家でしたが、周囲に木々があり、あたかも持ち家かのような洋風の家でした。
伯母は帯広時代はほぼ毎年北見に行っていたようで祖母もその度に会っていましたが、僕と母と妹は2年振りの再会で、釧路時代に帯広にお邪魔したことや夏休みに札幌と北見、秋に再び北見に行った話で盛り上がりました。従姉のYKさんも現れ、夕食をごちそうになっていると、ご主人が帰宅し、盛り上がりは更に増しました。
夜も遅くなったので、母と祖母はバスで帰宅しましたが、僕と妹は翌日開校記念日でお休みで、2年振りの再会ということもあり、せっかくだからということで泊まっていきました。
YKさんの部屋に入ると受験を控えて勉強していましたが、勉強しながら話をしてくれました。振ると赤ちゃんのガラガラみたいに鳴る陶器のおもちゃがあり、絵柄を見ると、何か特徴のある人の絵と思ったら、吹き出しに
「やなせたかし」
とあったので、納得しました。妹が買って読んでいた「小学一年生」のマンガや釧路の小学校2年のときの読み聞かせ会で読んでもらった「あんぱんまん」で氏の作品は見ていましたが、「ガラガラ」みたいなおもちゃの絵も描いていたのに驚きもし、喜びもしました。

一夜明けて開校記念日でお休みの12月3日を迎え、朝ごはんをごちそうになりご主人とYKさん、そして従兄のTMさんが出勤や登校すると、僕と妹は伯母に、YKさんが小さいときに読んでいた本を見せてくれました。
「キンダーブック」やかこさとし先生作の「こどものカレンダー」等、北見の保育園時代や釧路の図書館バスで借りて読んだ本がたくさんあって、むさぼるように読みました。
昼過ぎになるとお昼ご飯を軽くごちそうになったほか、裏の庭に植えていたイチゴを一緒に採って、食べさせてくれました。今までスーパーで買ったのを食べたことしかなかっただけに、雪に埋もれた中で採ったイチゴの味は、多少未熟で緑がかったところこそあれ、格別でした。
夕方になると、夕食にハンバーグを作ってくれました。手作りなだけでなく鉄板で焼き、その鉄板を専用の木の板に載せただけに、普通に焼いて皿に載せるのと違い熱々で、おいしさが段違いで、あたかも高級レストランの味かのようでした。
夕食も終え、妹と一緒に帰ることになり、最寄のバス停から石狩町の花川方面に向かうバスに、伯母に見送られて乗りました。通常なら前と中に扉がある車両のはずが、長距離向けに前扉のみでリクライニングシートの車両で、ちょっとした旅行気分でした。
伯母から電話で聞いたようで、新琴似小学校前のバス停で降りると、母が迎えに来ていました。前日に積もった雪道を歩いて帰宅し、土曜日だったので「ジャッカー電撃隊」と「全員集合」を見て、翌日祖母を見送るのに備えて眠りに就きました。
  1. 2017/02/21(火) 18:29:16|
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(祖母追悼) 祖母北見に帰る

北見時代そして北見に帰る度にあれこれ良くしていただいた母方の祖母が、本日午前、帰らぬ人となりました。昨年末に肺炎で緊急入院し、どうにか年を越して来月末の白寿を控えていた矢先だけに、言葉が見つかりません。
そういうわけで、順番を変更して、祖母が北見に帰ったときのことを先に書きます。

釧路に来て引っ越しを手伝い、札幌まで一緒に来てくれた母方の祖母が、荷物が片付き、父も僕も妹もそれぞれ新しい職場や学校に通い始めて落ち着いた12月4日の日曜日、北見に帰ることになりました。
昼過ぎに家族5人して新琴似小学校前のバス停から当時地下鉄南北線の北の終点だった北24条駅までバスに乗り、乗り継ぎ割引券を受け取って地下鉄でさっぽろ駅まで行き、国鉄札幌駅に出ました。
改札前で先に札幌に転勤していた帯広の伯母と合流し、駅地下や周辺の店で北見へのお土産を買い、食堂で昼食を食べたりしているうちに、15時半を回り、祖母の列車を待つべく改札前に並びました。
北の都というだけに、札幌駅の列車の発着本数は今まで住んでいた北見や釧路の比ではなく、改札前の1番線や向かいの2・3番線だけでも列車の発着が目まぐるしく、更に向こうの4~9番線は推して知るべしでした。当然人の量も多いだけに、父が僕に笑顔で
「札幌は広いから、はぐれたら家に帰れなくなるから気を付けてな」
と耳打ちしました。
改札真上の、発着時刻の近い列車を表示する反転式フラップ表示の時刻表を見ると、初めて札幌に行った帰りに乗った網走行き特急「おおとり」その他に交じって
「急行 宗谷 函館15:50 稚内15:55」
という表示を見て、函館と稚内を結ぶ「宗谷」という急行があるのを初めて知りました。列車は札幌に15時50分に着き、55分に出るダイヤでしたが、函館からは千歳経由でなく小樽経由で、しかも稚内方面へは釧路や網走方面と違ってまだ特急がなく、この「宗谷」が稚内方面へは最優等列車で、札幌のみならず函館で青函連絡船に接続して本州とも結んでいたのがわかりました。同時に列車名から3月にNHK「みんなのうた」で流れて僕も同月に釧路での学級お別れ会で歌ったダ・カーポの「宗谷岬」の歌詞が蘇り、更に列車が長万部~小樽間の山線の峠の数々を力強く越えて雄大な北海道の大自然の中を走りながら道内や本州からの客を日本最北の稚内まで運ぶ様子が目に浮かびました。
ふと我に返り、改札前の1番線を見ると、赤い電気機関車に引かれた茶色や青の客車鈍行が滑り込んできました。真上の時刻表を見ると、岩見沢から倶知安に向かう普通列車で、きっと小樽から先はディーゼル機関車に付け替えられるんだろうと興味津々で見ました。
再び我に返り、騒がしくなったので時刻表を見ると、祖母が乗る17時02分発網走行き急行「大雪4号」の時刻が迫り、改札が始まったので、祖母は乗車券と自由席急行券を、僕たち家族4人と伯母は入場券を持って改札を出て跨線橋を渡り6番線に降り、車内まで祖母の荷物を運びました。みんなして空いてる席に座り、向かいの5番線の列車が発車したのを見て、父が
「ほら発車したぞ!」
と、向かいの列車が発車したのがうちらの列車が発車したかのように見えたので、そういう冗談を飛ばして、みんなして笑いました。
列車は深川から留萌線と羽幌線を経由して幌延まで行く急行「はぼろ」と、旭川から宗谷線・名寄線で名寄・興部・紋別を経由して遠軽まで遠回りで行く急行「紋別」を併結しており、後にその上りバージョンが僕が初めて札幌に行ったときに乗った「大雪1号」と知りました。
時刻も迫ったので、僕たちと伯母は列車から降りて祖母を見送り、まだ発車しないうちに駅を出て地下鉄とバスで帰宅しました。

帰宅すると夕食を取りながら「サザエさん」を見、それからNHKの7時のニュースを見ました。父が勤め人らしく全国のニュースに真剣に目を光らせていたところで道内のニュースに移ると、祖母が乗った急行「大雪4号」が、滝川付近の踏切でトラックと衝突したニュースが流れ、家族みんなして
「ばあちゃん大丈夫か」
と心配しました。列車は大丈夫だったようですが、トラックが破損し、遅れは必至でした。
ニュースが終わり、当時三波伸介さんと中村メイコさんが主演していた「お笑いオンステージ」と萩本欽一さんが司会をしていた「オールスター家族対抗歌合戦」を見て、祖母の安否を気遣いながら9時に妹と共に寝ました。

翌5日の月曜日、学校から帰って母に祖母の安否を伺ったところ、案の定列車は大幅に遅れて、北見に着いたのが10時半のところが夜中の12時だったということでした。トラックとの衝突だけにどうなったことかと思いましたが、列車は破損がなく、祖母もケガ一つなく無事で、僕たちみんなして安心しました。

この場をお借りして、おばあちゃん、来月の白寿は迎えられなかったけど、何とか年を越して頑張ったね。僕が北見に住んでいたり、釧路や札幌のころも北見に行く度行く度伯母や従兄たちと一緒に良くしてもらって、思い出は尽きません。どうか安らかにお眠りください。そして遠い空から僕たちを見守ってください。合掌。
  1. 2017/02/15(水) 19:48:25|
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